「占有」について
いい加減なノート。やっと立岩理論の意義と限界が見えてきた感あり。
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昨今の「市民社会」ブームの中ではほとんど忘れ去られていた、戦後日本マルクス主義の一ウィングとしての「市民社会派」はマルクス『経済学批判要綱』の用語法で言うところの「領有法則の転回」を資本主義理解の鍵となし、「労働に基づく領有」から「蓄積された労働=資本に基づく領有」への転回を、本来の市民社会からその頽落形態としての資本主義社会への転化の本態と考えた。そして剰余労働の搾取に基づく資本主義社会は否定しても、「労働に基づく領有」を基軸とする市民社会は肯定しようとし、そこにおける所有をマルクスの用語法に従い私的所有とは区別される「個体的所有」と呼んで、社会主義革命をその再建、すなわち所有の否定ではなく変容、本来のあり方への回帰として理解しようとした。
このような理解に対して、例えば障害者解放運動の論理を延長して「そこではなお所有の根拠が労働となされているという限界がある」と批判することは、意味がないことではないが核心を外している。「誰の労働の成果であろうが、いやそもそも労働の成果であろうがなかろうが、何かを所有していなければ生きていけない」という主張には充分に意味があるが、それによって何を否定すればよいのか。ただ単に「労働中心主義」を否定しようというだけなのであれば、「労働中心主義」に換えて「生存中心主義」を、では、あまりにも射程が短い。(なお以下では「労働」という言葉はさしあたり、マルクス主義的な茫洋たる意味で用いられ、アレントほどの精密さ――「仕事」と区別するといった――はあてがわれない。)
立岩真也『私的所有論』はある意味で核心に近づいている。そこでは尊重されるべきは、まずもって(理論の主役としての)主体の所有ではなく、(理論の主役にとっての)他者の所有とされている。「(労働であろうと生存であろうと)かくかくしかじかの理由でこのものXは(そこで問題となっている労働ないしは生存の主体たる)Aの所有するものである」という論理ではない。まずは「そこにあるものXはさしあたり主体Aの所有するものではない」から出発する。非常に素朴なロック的推論からすれば「そこにあるものXはさしあたり主体Aの所有するものではない」から、「他に具体的な誰かが居合わせたり念頭に置かれているのではない限り、そのXはAのものではないばかりか誰のものでもないと思われる」と推論し、更にそこから「誰のものでもないのだから主体Aが領有してしまって自己の所有としてしまってもよい」となる。ここにはもちろん厳密に言えば飛躍があるわけだが、日常的に飛び越されがちな飛躍であるし、実際に飛び越されても問題とはならないことも多い。
しかし立岩式ではこの飛躍を重く問題視する。「そこにあるものXはさしあたり主体Aの所有するものではない」からといって、「他に具体的な誰かが居合わせたり念頭に置かれているのではない限り、そのXはAのものではないばかりか誰のものでもないと思われる」とは考えず、むしろ「具体的に誰とはわからないが、それは既に誰かのものであるかもしれない」と考えるのである。
先の「労働中心主義」か「生存中心主義」か、という対立は、その問題となる「労働」ないしは「生存」の主体が既に具体的に確定した上での思考の中での対立に過ぎない。立岩的な思考はその手前で、「不特定の誰か」どころか「ひょっとしたら誰もいないかもしれないが、誰かいるかもしれない」というレベルにおいて展開されている。
この思考は一見、著しく――不毛なまでに抽象的であるが、実はあるレベルではひどく具体的である。すなわち、「労働中心主義」にせよ「生存中心主義」にせよ、あるものに対する誰かの所有権の根拠を、所有ということそのものの外に求める、という思考である。抽象的かどうかはともかく、所有よりも基礎的、根底的なオーダーがそこでは求められている。それに対して立岩の思考においては、少し事情が異なっている。「あるものXを具体的には誰かわからないがそれでも誰かが所有しているかもしれない(「所有しているはずだ」ではないことに注意)」という判断において、果たしてそこには「所有」の外に「所有を根拠づけるもの」が想定されていると言うべきなのか。むしろそこにある、あるものXそれ自体が尊重され守られるべきものとして端的に肯定されようとしている、と言うべきではないのか。
今少し具体的に論じてみるとすれば、このようなケースを考えてみればよい。資本主義社会においては、ものの所有の標準的な理由は、そのものを実際に消費したり使用したりすることではなく、それを用いて利益を上げることにこそある、と想定しよう。そのような常識、通念の下では、ある人(自然人でも法人でも)Aが他の人Bの所有するものYを入手したいと考えたときには、一定の対価を支払えば普通はそれが可能になる、ということになる。つまりBがYを所有している理由は基本的にはそこから利益(特に金銭換算した利益)αが得られるからであり、その利益αを償うに足る対価を支払いさえすれば、普通AはBからYを譲り受けられるはずだ、と。(例えば土地Yから毎年yだけの地代が上がるとすれば、yを市場利子率rで還元したy/rがαとして妥当である、とか。)
もちろんここでBはYを意図して売り物として市場に出してはいないかもしれない。しかしながら仮にそうだとしても、Yの存在がBの家の中などに秘め隠しておかれずに、公共圏に配置されてその存在が公示されているのであれば、それは実際には市場に出されているのと同じことである、との想定が資本主義社会ではなりたってしまう。そんな風に考える人が少なからずいる。
実際問題としてYの存在は公になっていて、現実にそこからBは毎年yだけの利益を得ているかもしれない。そうだとすればAその他の公衆はYはα=y/rだけの価値を有する、と考えることは理にかなっている。だからといってBがYの所有者である限り、BはAであれ誰であれ他人から「α(それで不足ならα以上のある額)を支払うからYを譲ってくれ」と申し込まれても、その依頼を受け入れてYを引き渡す義務はない。
しかしながらここでBがAなり誰なりの申し込みを拒絶し、Yの所有を確保し続けたとしたら、資本主義社会では普通、以下のように邪推(とあえて言おう)されてしまう。すなわち、「Bは実際にはαだけの価値しかないYに関して、それ以上の対価をふっかけてあくどくもうけようとしているのではないか」と。仮に実際にはBにとってYはかけがえのない――金銭的に換算不能、金銭はもちろん他の何物にも代え難い価値を有するものだったとしても、資本主義社会では、公衆からそのように思ってもらえる保証はない。
ここで立岩式の思考に従うならば、「公衆の一員としてのわれわれは、Bのような人物に出会ったときに、「こいつはゴネ得を狙っている」と邪推する(悪意を推定する)より前に、まずは「YはBにとってかけがえがないのかもしれない」と想定してかかる(善意を推定する)べきである」ということになる。
ただしここで「所有」という言葉遣いで問題を語ることは本当は不適切である。現代のわれわれは「所有」という言葉でもって、日常的、常識的に何かを「持つ」「所有する」ということを意味するのみならず、厳格に法律学的、法制度的、法実務的な意味での「所有」という事柄をも意味する。そして日常語が指す「所有」と法律用語としての「所有」が指す事柄とは、明確に区別が必要となる。立岩を含めて大部分の(実務的な法律学の知識を持たない)社会理論家は、「所有」という言葉を用いる際にきわめて不用意である。
ではどうすればよいのか?
上記のケース、AとBとが、Bの所有するYをめぐって緊張関係にある、という事態を考えてみよう。この場合問題を鮮明とするためには、われわれは「所有」という語をとりあえずは措いておく方がよい。ではどうするのか? 「占有」という法律用語がある。しばしばわれわれ非専門家は「占有とは「所有(権)」などとは異なり権利ではなく単なる事実である」と思いがちであるが実際にはそうではない。占有は単なる事実にとどまらずしばしば権利として扱われる。たとえ所有権などのその裏付け、根拠となる「本権」が別にある「仮の権利」であるとしても。
そして今度は、AはYの所有権者であり、BはYを占有している、という風に想定してみよう。Bの占有権のいわゆる「本権」がどこにあるかは問うまい。われわれが典型的に想定するケースは、不動産Yの上でBが生活している、というものであるが、そこでBは家賃を払った賃借人であるかもしれないし、単なる占拠者であるかもしれない。所有権はなくとも賃借その他の本権の裏付けがあればもちろんのこと、そうした本権がなくとも、やむにやまれず――具体的には、文字通り「他に行き場がない」――そこにいるしかない場合には、この占有は権利として認められる可能性がある。もちろんここで多くの人は、家賃を滞納した店子のことや、公園にテントを張って暮らすホームレスのことを想起するであろう。前者は、今現在きわめて評判の悪い借地借家法制によって手厚く保護されているが、後者はそうでもないことに注意。しかしそれ以上にわれわれは、「占有屋」に注意を払わねばならない。占有屋がある物件を占拠する理由は、「他に行き場がない」から、生存のために必要だからではなく、資本主義社会にふさわしく利益を上げるため――まさに「ゴネ得」のためである。こうした「占有屋」に占有権を認めることはどう考えてもおかしい。しかしながら資本主義社会では、現実問題としてこうした(常識的にも法律的な意味でも「悪意」による)「占有屋」と(常識的と言うよりは法律的な意味での「善意」による)占拠者(squatterとでも呼んでおくか?)とを明確に識別することは難しいのみならず、後者はつねに「実は前者ではないのか」という疑惑にさらされ、また実際に前者によって利用される危険にさらされている。
なぜ「所有」という言葉、概念によってではなく、「占有」によって考えねばならないのか、といえば、われわれの社会では、いつごろからかはともかく(『法存立の歴史的基盤』を頂点とする木庭顕の考証によればローマ共和制の衰退期から)「占有possessio」とは区別されたものとしての「所有dominium」という概念、制度ができあがってきて、本来それに先行し、それよりも基層をなしていたはずの「占有」を押しのけ、周辺化してきたからであり、にもかかわらず「所有」という仕組みは見かけほど万能ではなくあちこちで綻びを見せており、「占有」概念も完全に滅び去ってはいないからである。
「所有」と「占有」をわざわざ区別しなければならない理由として、われわれ素人にも直観的に理解しやすいのは、われわれは典型的には不動産の賃貸借の場合のように、あるものを占有することなしに所有することが当たり前にできるからである。ではそこでの「占有なしの所有」とはなんであるか? 例えばまさに地主・家主が不動産を他者に賃貸しているような状態である。(金銭や種類物の消費貸借ではなく、不動産など安定したものの賃貸借を問題としていることに注意。)所有権者は対価と引き替えに、条件付きで占有権を賃借人に付与するが、その条件が解除されれば占有は所有権者に戻る。また賃借人は借りたものの使用権はある条件の範囲内で有するものの、そのものを処分する権利は持たない。更に所有権者には、経済学者たちが「残余請求権」と呼ぶ権利が帰属している。
残余請求権について考えるには、土地よりも株式会社などの法人の場合の方がわかりやすい。日本の法律用語には「剰余金配当請求権」(会社法105条1項1号)「残余財産分配請求権」(会社法第105条1項2号)がある。会社の所有権者であるところの株主は、会社が営業活動の結果得た収益、そこからあらゆる費用を差し引いて残ったところの純利益を配当される権利を持つし、また会社を解散した場合には、やはりあらゆる債務を整理した後に残った財産の分配を受ける権利を持つ。一般の株主は株主総会で発言し、議決権を行使するという形でしか、自分が部分的に所有する対象であるところの会社に対して関与することはできない。過半数株主でもなければ、文字通りの意味で会社を支配することなどできない。しかしながらそうした一般の泡沫的な株主でも、当然のことながら会社の営業活動から利益、それも債権者の場合とは異なり、あらかじめ定められた一定の額に押さえ込まれてはいない、原理的には無限の利益を得られるチャンスがある。実は資本主義社会における「所有権」の標準的なありようは、実際にものを利用したり支配したりする権利というよりは、こちらの「残余請求権」であるといった方がよいくらいである。(土地のケースについては別の機会に論じる。)
もちろんここで「借用」と「占有」を同一視する、同一視しないまでも「所有なしの占有」の基本型、典型と見なすべきではない。賃借の理由はその使用ではなく、転貸して利益を上げるためかもしれない。(木庭は「サブリースは異常でも例外でもない」と喝破する。木庭『現代日本法へのカタバシス』参照。)
では元に戻って「占有」とは何か。木庭はいみじくも「占有とは定義不能の原始概念である」との趣旨の発言をしており、それはそれで仕方ない、と思うが、特に法律素人のわれわれとしてはもう少し具体的なイメージがほしいので、木庭の言葉遣いをもう少し追っていくと、主として法人や信託のことを念頭に置きつつ「ゴーイング・コンサーン・バリュー」という言葉をキー概念として用いている。これを頼りにしよう。
われわれは先に「労働中心主義」と「生存中心主義」という対立軸を提示した上で、射程が短すぎるとして切って捨てた。そこで今度は、占有であろうが貸借であろうが所有であろうが、営業活動全般の目的が金銭で評価できるような利益であるか、あるいはそのものの具体的な利用、使用であるか、という対立軸を考えてみよう。古いマルクス主義の言葉遣いを援用するならば、「価値視点」対「使用価値視点」ということになる。
繰り返すが、問題は「労働か、生存か」ではない。ことに資本主義社会の下では、労働の意味は多義的となり、少なくとも利益を上げる営業目的か、生存をはじめとするもっと具体的な目的のためか、という区別が可能となる。これにもまた「価値視点」に対応した「抽象的人間労働」対「使用価値視点」に対応した「具体的有用労働」という表現をあてがうことができる。これに対して生存は、ここで考えているレベルでは、もっと具体的なものであり、このような抽象的な区別を与えることに意味はない。
だからここで考えているのは、「抽象的人間労働」ならびに「抽象的な交換価値の集積としての資本の自己増殖」、というアスペクトと、「具体的有用労働」、具体的な生産設備(資本財も土地も含めた)、そして具体的な生存、というアスペクトとの対比である。非常に乱暴に言えば前者が「所有の論理」であるのに対して後者が「占有の論理」である。
占有を行き場のない不法占拠者やホームレスをモデルにして考えるならば、「生存」が前面に出てきてしまうだろう。しかしそうではなく、具体的有用労働、というより「生産」を前面にせり出させる考え方もある。それが木庭が例えば「ゴーイング・コンサーン・バリュー」という言葉を用いて言い表そうとしている何事かである。具体的には、倒産処理というプロセスにおいて露わになるものごとである。
有限責任会社のコーポレート・ガバナンスの中軸、最終審級は通常、株主の株式所有であるが、破産、倒産という局面においては、これが全く当てにならない。以下厳密な日本の法制に基づいた話は省略して勘所だけ述べよう。
倒産とは通常、会社が債務を支払えなくなって、経営を終了させるか、根本的に再編するかのどちらかを選ばねばならなくなった局面である。ここで株式会社など有限責任の会社においては、履行すべき債務、具体的には返済しなければならない借金に上限がある。すなわち、普通は株主が出資した資金の総計に等しいところの資本金を上回る債務については、履行する(例えば返済する)義務はない。つまり有限責任の会社においてその所有者たる株主は、そこから得られる利益については無限のチャンスを持っているのに対して、リスクの負担については限られているのである。会社がどれほど巨額の損失を出そうと、株主が負うリスクは、出資金の範囲、所有している株式の額に限定されている。株主が失うものは、最悪の場合でも株式の価値だけであり、それはゼロにはなってもマイナスにはならない。
だからあまりにも巨額の損失を出して、債権者その他に甚大な被害を与えた会社は、場合によっては株主がすべてを吐き出し、所有している株式に残った範囲でのみ弁済して、それで終了、となってしまう恐れがある。実際株式の価値がゼロになってしまえば、株主たちにそれ以上会社の経営にこだわる理由も(純粋に金銭ずくの「価値視点」においては)なくなってしまう。だから倒産のプロセスにおいては、コーポレート・ガバナンスの主役はしばしば債権者の方に移動する。倒産の過程の中で、株価は崩落し帳簿上はしばしばゼロとなるが、債権の方はそうはいかないからである。債権者たち――未払いの賃金を求める従業員、貸し付けを抱えた銀行、売り掛けを回収していない仕入先、支払済みで納品を待つ顧客等々――の方が、株主に比べてあきらめが悪くなる。会社に残った有形無形の資産――生産設備、在庫品、技術、組織的ノウハウ等々――から少しでも多くの価値を引き出そうとするのは、債権者の方である。
しかしながらここで必ずしも債権者たちが、ゴーイング・コンサーン・バリューとしての企業価値(普通「企業価値」という言葉は「価値視点」のものであるから、この表現はミスリーディングであるが)、「使用価値視点」でみた企業の生産力を大事に保存し、再建に協力してくれるとは限らない。債権者もまたたちの悪い株主(先の記述ではあたかもすべての、あるいは典型的な株主が「たちが悪い」かのように論じてしまったことに注意)と同様、目先の利益に駆られてしまうかもしれない。
現代の民法、倒産処理法では「債権者平等の原則」があって、倒産した企業に対して、すべての債権者の権利は、その債務の額に比例して平等である。つまりどういうことかと言えば、抜け駆けは許されない。倒産した企業の資産は、株主も経営者も勝手に処分できないように保全されて、債権者たちが中心になって組織するコミュニティ(森田修は「債権回収の集団的秩序」という言葉を用いる。森田『債権回収法講義』参照)を主体として管理される。企業を再建せず、精算してしまうのであれ、あるいは経営を立て直し再出発するのであれ、このコミュニティによって主導される。しかしながらこのプロセスは言うまでもなく面倒であり、それをすっ飛ばしてしまいたいという誘惑は大きい。そしてそうした誘惑に応える形での制度が、実はあたかも「債権者平等の原則」の裏をかくがごとくに用意されている。それがつまりは抵当権、質権などの「担保物権」という仕組みである。債務不履行に備えて、債務者の所有するもの、資産を担保とし(土地に抵当を設定する、あるいは質として預かる)、いざ実際に債務が不履行となったら、担保に取った資産を処分して、そこから弁済に充てる。個別の債権者は、この担保を設定しておけば、いざ倒産と言うときにも「債権者平等の原則」をすり抜けて、他の債権者たちを尻目に抜け駆け的に取り立て、個別的に債務の弁済を行うことができる。
「所有権」、更には「担保物権」といった「物権」を悪玉にすれば済むという問題ではもちろんない。むしろ企業が順調に利益を上げ続け、債務を履行し続けている限り、そして全般的に景気がよい限りでは、こうした仕組みはむしろ企業活動にとってプラスである。経営それ自体には関心を持たず、投機的な思惑でのみ株主となる投資家は、配当よりも資本市場で取引される株価の方に関心を持ち、配当からよりも株式を売買して得られるキャピタル・ゲインから利益を得ようとする。しかしそうした投機的振る舞いが株価を上げてくれれば、会社としても増資その他の仕方で資金を調達することは容易となる。あるいは担保を設定することによって銀行その他が安心して貸し付けを行ってくれるならば、会社としては基本的に歓迎である。それどころかよく知られているように、債権それ自体がありとあらゆる形で物権化――証券というもの、商品と化して市場で大々的に流通しているのが、金融資本主義というものである。債権の回収手段は、もはや債務者から取り立てるだけではない。優良な債権であるならば、他人に転売してしまえばよいのだ。
ただしこうした良循環は、経営危機の局面において、更には景気後退の局面においては悪循環に転じ、株主の所有権や債権者の担保物権は企業価値に対して破壊的に作用する。こうした後退局面において企業価値を守ることは並大抵ではない。この課題――「使用価値視点」からみた企業の実体的な生産力の保持――、ならびに生存を支える実体的基盤の確保という課題に対して木庭は「占有」の語でもって立ち向かおうとしている。もとより法律素人であるわれわれがその是非に対して適切な判定を下せる立場にはない。しかしながらここにはおそらく、真正の課題がある。
われわれの考えでは、この「占有」という語は、かつての市民社会派が「個体的所有」という言葉で表現しようとした事柄に対応している。そう考えるならばそれは社会主義での課題でもある。もちろん社会主義、とりわけマルクス=レーニン主義の主導した「現存した社会主義」とは、「所有」その他の法的な枠組みをまたぎ超して直接に「使用価値」を、実体的生産力を把握し管理しようとした試みであり、それは無残に失敗した。そう考えるならば「市民社会」の再建」として社会主義を考えようという路線は、相応の正しさを持ってはいる。しかしその具体的な姿は実は全く不明であったし、未だに不明なままである。
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