「会社主義」試論(メモ)

新刊の続きとして

 

 

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 1990年代の劈頭を飾った東京大学社会科学研究所の全体研究は『現代日本社会』(報告書は東京大学出版会刊)であり、第一巻の序論に明示されるように、その主導アイディアは当時の現代日本を「会社主義」というキーワードで形容するものであった。このキーコンセプトとしての「会社主義」は基本的に宇野派のマルクス経済学者馬場宏二と、民主科学者協会法律部会の憲法学者渡辺治の合作である。

 馬場宏二の「会社主義」概念は、彼と盟友であった財政学者加藤榮一が、師たる大内力の国家独占資本主義論を踏まえてともどもに形成しつつあった現代資本主義論を、主として労働経済学者小池和男の日本的労使関係論と、弟子の橋本寿朗の日本重化学工業論を念頭に置きつつ適用したものである。それは20世紀、ことに高度成長以降の日本資本主義を、20世紀前半から中葉にかけての資本主義の先導国であったアメリカ合衆国に代わって、世界の資本主義の新段階を主導する新たな典型国として理解しようとするものだった。

 日本資本主義の一見したところの特殊性を「後進性」「封建遺制」としてではなく、「国家独占資本主義」とかつて呼ばれた20世紀の組織資本主義のヴァリエーションとして捉えよう、つまり日本を異常でも後進的でもない普通の先進資本主義国として捉えようという志向は、日本マルクス経済学全体の中では反主流ではあったが、馬場たちの世代以降の宇野派の研究者たちには広く共有されていた。大内の財政金融政策、ことにインフレーション政策による労資対立の緩和を軸に据えた独自の国家独占資本主義理解に、より広く、労使関係制度の整備による労資協調、社会保障の整備といった福祉国家体制、それを支える国際環境としての管理通貨制度、更にそれらの実現を後押しした経済外的なコンテクストとしての世界大戦と戦時動員の経験、といった論点を加えて加藤榮一の現代資本主義論は形成され、馬場もそれを受容した。更に馬場はそれを戦後日本資本主義に適用するにあたって、小池和男の日本的労使関係論を全面的に受容し、20世紀の組織資本主義において普遍的に進行する労働市場の内部化、中核的従業員の長期雇用(日本的に言えば「終身雇用」)と内部昇進制(の結果としての見かけ上の「年功賃金」、その背後に貫徹する能力主義的合理性)、それを支える企業・事業所単位の交渉を軸とする労使関係、と言った諸特徴において、日本はそれに当てはまるどころか、20世紀中葉までの資本主義の主導国とされたアメリカ合衆国以上に、それらを徹底的に推し進めた典型国、先進資本主義として捉えられる、とした。そして馬場はこのような日本資本主義は、市場経済を軸としたれっきとした資本主義でありながら、同時に、その主役である企業が共同体的な生活保障機能をその従業員に対して発揮していて、福祉国家による社会保障を補完している、というより企業による雇用保障を軸とした生活保障こそが日本的福祉国家の主軸をなしているという意味で、社会主義的な色彩をも帯びている、とする。それどころか、東側社会主義の経済停滞が明らかになった80年代においては、西側資本主義の中でもトップクラスの成長率や雇用の安定を誇る日本は、公式的な社会主義以上の成果を上げる実質的な社会主義だ、とも。これを表すための言葉として馬場は「会社主義」を選ぶ。

 このようなほとんど日本礼賛論ともいえる馬場の「会社主義」論に対して、渡辺治の取るスタンスはもっとストレートに批判的、左翼的である。しかしながら渡辺は、職場の労働運動の熱心なリーダーであり、共産党系の社会運動にも熱心にコミットする活動家学者であるが、おそらくは職場である東大社研での馬場など他の研究者たちとの交流もあってか、それまでの共産党系の論者たちとは異なり、日本資本主義のある意味での先進性、とりわけその生産力の高さと、その成果を労働者にも配分することなどを通じて、労働者大衆の支持を得ているところを率直に認め、そうした強い統合力のある支配体制といかに戦うか、という問題の立て方をしていた。左翼の側でのこうした問題設定の源流は、60年安保前後の新左翼日本帝国主義自立論にあると言え、新左翼諸党派の知的生産性はその後急落したものの、グラムシヘゲモニー論なども踏まえて、豊かな社会における満足した労働者に支持される資本主義をどう批判するか、という課題は党派を超え、またアカデミーの内と外の両方で受け継がれた。しかし80年代までは共産党系や社会主義協会派などの旧左翼においては、戦後においても日本資本主義は後進的で、労働者は弾圧されており資本主義への忠誠心など持たない、という理解が公式的なものであった。80年代においてこの壁を破った共産党系論客として渡辺の存在は突出していたのである(ノンセクトのイデオローグとして著名だった菅孝行が高い評価をしている。菅編『モグラ叩き時代のマルキシズム』現代企画室、1985年)。渡辺は日本社会の現状に関する事実認識においては馬場とほぼ一致していたが、距離を置いた肯定、とも言うべきシニカルでアイロニカルなスタンスをとる馬場とは異なり、日本社会の「会社主義」を打倒すべき敵とみなしており、その点では小池と事実認識を共有しつつ日本的労使関係への批判的スタンスを貫いた熊沢誠からも影響を受けている。

 日本資本主義論としての「会社主義」論の要は、ことに加藤の現代資本主義論との違いに注目するならば小池理論の受容である。加藤の場合は労資協調の基盤としての労働市場の内部化は、政治・社会統合の面ではプラスではあれ、経済・生産力面ではむしろ重荷、制約として理解される傾向があった。しかし小池理論を受容するならば、労働市場の内部化は独占資本主義段階においては経済合理的であり、雇用の長期化や賃金の硬直化といったマイナス面は、労働者の就業意欲と、小池の言う「知的熟練」、長期雇用の元での能力の向上(特に不測の事態への対応能力や「改善」への参加)を高めることによって相殺されてあまりあることになる。馬場はここまで見込んで日本を20世紀終盤という時点での資本主義的先進国と捉えたのである。その上日本は、労働者を含めた民衆の生活水準の向上と安定を達成するにあたって、既に行き詰まりを見せいていた東側の計画経済以上の成果を挙げているのだから社会主義としても悪くはない――馬場はこのように日本を位置づける。とはいえ馬場によればそのような日本でさえも資本主義の究極的な限界としての、自然環境の制約を克服することはできないと予想するので、彼の議論は手放しの日本礼賛論とはならないが、資本主義へのオルタナティヴとしての社会主義への展望は(日本「会社主義」を含めても)そこにはない。

 さてこうした「会社主義」論はバブル崩壊以降の日本経済の展開によって見放されてしまったわけであるが、それに対して論者たちがどう対応したかについてはさておいて、それを社会思想史的脈絡の中に置きなおしてみると、それは日本文化・社会論のマルクス主義ヴァージョンということができるが、それ以上に、産業社会論の一ヴァリエーションにも結果的になってしまっている、と言えるのではないか。もちろんそれはあくまでもマルクス主義の図式にのっとっており、産業社会論のそれとはその基礎からして異なる。にもかかわらず結論的には産業社会論の収斂理論と奇妙に似通ったところに到達しているのだ。

 当時の日本における産業社会論を代表するのは村上泰亮であり、彼の「イエ社会」論、「新中間大衆」論はまさに「会社主義」論のカウンターパートである。とはいえ村上の場合にはその要は日本的労使関係・雇用慣行からは微妙にずらされている。村上は小池同様、そうした長期雇用、労働市場の内部化を先進資本主義における普遍的な傾向と見なす。しかし小池とは異なり、日本をそうした傾向における最先端とも明言しない。村上が日本の特徴と見なすのは政府による産業政策、産官関係とそれに基づく業界秩序である。その中には「護送船団行政」と揶揄されることもあった、強い規制と引き換えに保護された銀行業界があり、更に「メインバンクシステム」と呼ばれた、銀行依存度の高い企業の資金調達慣行があった。歴史的経緯としては多分に偶然が作用しているが、戦後の財閥解体によって持株会社による旧財閥系企業のガバナンスが解け、更に高度成長期の証券不況以降、一般の投資家が委縮して、大企業間での株式の相互持合が進み、その下支えを銀行が行うようになった。つまり乱暴に言えば最終的なセーフティーネットを、政府による強い規制の下にある銀行が引き受ける形で、多くの企業が資本市場による統制、資本家によるガバナンスから独立した擬似的な自律性を獲得してしまった、というストーリーである。類似の議論は多く見られたが、村上のこの経済論は、上記の業界と規制官庁との共生関係に加えて、議会については包括政党としての自民党主導のコンセンサス・ポリティックスという理解を提示した政治論と、そうした包括政党の支持基盤としての、明確な断絶を欠いた「一億総中流」のなだらかな階層構造として日本社会を捉える「新中間大衆」社会論と合わさって、包括的な日本社会論として広く受け入れられた。そしてこの村上の議論を踏まえるなら、「会社主義」論を含めた、戦後日本を企業中心社会論として捉える議論は、総じて産業社会論のヴァリエーションであったことが見えてくる。そこで描かれる企業は、従業員の生活保障に責任を持つ疑似共同体であるのみならず、資本家の統制からも自律した、つまり資本家の利益の実現のための道具ではなく、それ自体の存続を自己目的化した組織として理解されているのである。

 総体としてみれば産業社会論は冷戦終焉と体制転換によって失効宣告されたわけではあるが、会社主義論は社会主義の崩壊によってではなく、バブル経済の崩壊によって忘れ去られることになった。つまりそこには若干の時差があり、東側の体制転換と日本における不況の深刻化の過渡期には、しばしば戯画的に「日本こそ最も成功した社会主義である」と言われることもあり、また日本企業を大真面目に「従業者主権企業」としてモデル化する試みもあった。だが産業社会論も会社主義論も、単に事実によって陳腐化され、失効させられただけであって、果たしてそのどこに誤りがあったのか、の総括はいまだ十分になされていない。

 まずイエ社会論の主導者村上泰亮についていえば、社会主義の終焉には間に合ったが、バブル崩壊後の不況の本格化を見る前に没しているために、十分な自己総括を行う余裕がなかったうらみはあるが、しかし晩年の、おそらくは自己総括を目指したはずの大著『反古典の政治経済学』におけるいくつかの将来予測的記述を見る限り、その予測は無残なまでに外れていることに嘆息せざるを得ない。そもそも村上の基本的なスタンスとしては、社会主義の崩壊にもかかわらず、自己の理論枠組みの大枠の変更の必要はそもそも感じていなかったように思われる。産業社会論の枠組みからすれば市場主導か計画主導かは産業化における二つのオルタナティヴな方向性にほかならず、現実はその混交に他ならない。『反古典』においてはそのスタンスは「開発主義」なるキーワードによってあらわされ、この「開発主義」の濃淡によって市場主導か計画主導かの相違が理解される。ソ連型の指令経済は歴史的使命を終えたものの、市場を適切に生かす形での適切な政策的介入の必要性、有効性は当時の中進国の成果が示している、と村上は理解していた。その上で未来におけるイデオロギーの更なる後退、ナショナリズムの衰退を村上は予想した。国際関係についてもアメリカのリーダーシップの後退を予想しつつも、その穴を日欧主導の協調体制が埋めることを村上は期待していた。村上のこうした予想を後知恵的に嗤うことはたやすいが、何を彼が見落としていたのか、は問題とされねばならない。

 馬場宏二はと言えば、問題そのものから逃避したと言える。彼の会社主義をも含めた資本主義への評価はアンビバレントなものであり、伝統的な窮乏化論に換えて彼は資本主義の富裕化論をかねてから唱えていた。日本会社主義はいわばその先端を走るものと位置付けられていた。しかしながらこの富裕化はいずれ地球環境の限界に突き当たって行き詰る。それが彼の最終的な予想であった。それに比べれば日本会社主義の失速など些末なことにすぎない。そのようにして晩年の彼は日本資本主義について語ることを回避し、地球全体の過剰富裕化の不吉な予言に逃げ込んだ。

 渡辺治の場合は、最も傷が少なかったかもしれない。不況下において労働者を取り込む余裕をなくし、あからさまに抑圧的となった日本資本主義を批判していれば、イデオローグとしての彼の面目は潰れない。しかしそこには何の知的価値も残されていない。

 

 その上で改めてまとめてみよう。村上泰亮の「新中間大衆」論において注意すべきは、「新中間大衆」が実体概念ではないということである。マルクス主義的な階級理論の枠組みにおける新中間階級ではないのはもちろん、産業社会論的な階層概念における新中間層ともずれる。敢えて言えばそれは準拠集団であり、人々が自己を「中流」と見なすセルフイメージである。そのことと村上における小池理論の扱いとはおそらく関係している。小池と同様村上は労働市場の内部化、労使関係のホワイトカラー化を日本特有のものとは見ていない。しかし小池や「会社主義」論の場合は日本を先進的とするところでやはり日本を特別視している。その意味でそれらは「日本型企業社会論」「企業中心社会論」である。しかし村上は日本社会の特異性をそこに見てはいない。日本経済の特殊性は、労働市場の内部化よりも、金融界の「護送船団」において顕著な、産業政策によって保たれたゆるい業界秩序である。村上は「安定雇用の下でホワイトカラー化した労働者たちが「新中間大衆」の中核にある」といった言い方を避けている。実態的に見ればこうした安定雇用のサラリーマンたちも、旧中間層たる自営業者や農民も、消費行動や価値意識において大きな差を持たず、その多くが、先述したような産業政策と業界秩序を官僚機構とともに支えている、包括政党化した自民党を、緩やかに消極的に支持しているありさまがまさに「新中間大衆政治」なのである。

 それに比べると「会社主義」論を含めた、この時代における日本社会の批判理論は、はるかに労働市場の内部化を重視している。村上の場合には日本の豊かさや先進性の原因として日本的労使関係はそれほど特権化されておらず、産業政策や金融秩序が、少なくとも高度成長期までの追いつき型近代化には有効だったことの強調の方が目立つ。それに対して「会社主義」論においては、トヨタなどが特権化され、日本型生産システムの先進性が強調される。批判理論ヴァージョンにおいてもそれは同様であり、では豊かさの成果を労働者にも与えるそれがなぜ批判の対象となるかと言えば、それが過労死にまで行きつくような労働強化、人間疎外をもたらすからである。

 このように、村上ヴァージョンと「会社主義」ヴァージョンとの微妙な差はあれ、バブル期までの、ジャパンアズナンバーワンの時代における日本社会論は、ある意味で産業社会論のヴァリアントであり、産業社会論が社会主義の崩壊によって外在的に失効させられたのと同様に、バブルの崩壊によって外在的に失効させられた。事実それ自体によって暴力的に失効宣告をされたため、産業社会論と同様、「そのどこが間違っていたのか」の十分な総括はされないままである。ただ経済学プロパーでは意外と昔から、村上的な産業政策有効論に対する批判は根強くあったし、また「産業政策の有効性は「追いつき型近代化」の局面に限られているのではないか」という但し書きは他ならぬ村上自身によっても与えられていた。後から振り返れば、村上にはマクロ経済学的観点が欠如していたことも重要な問題である。そこで我々はどちらかというと社会学的な、かつ批判的な立場からの日本型企業社会論の失敗の意味について考えてみよう。

 バブル期までのニューレフト的な日本型企業社会論における批判の焦点は、先述の通りあからさまな搾取というよりは疎外であった。擬似共同体的な労務管理のもと、温情と裏腹の抑圧的な管理社会が、企業を中心に形成されている――そのようなイメージがそこでは展開されていた。それに加えて、そのような「豊かさの中での抑圧」は日本に限らず先進資本主義諸国に共通する問題である一方、あからさまな貧しさ、搾取が現代資本主義には不在である、とされていわけではない。グローバルに見れば途上国はなお貧困にあえいでいるのであり、先進諸国の繁栄は途上国の搾取の上に成り立っている、日本を含め先進諸国の労働者大衆はどちらかというと搾取者の側にいる、という発想がともすればそこには見え隠れした。そうなると、これはもちろん理論内在的な失敗ではなく、まさに外的な事実の力による失効であるが、日本にとってはバブル期あたりから明らかになってきた新興工業地域の台頭、それらの中進国かと、なかんずく改革開放以降の中国の躍進という展開が、こうした日本型企業社会論のリアリティの破壊にひと役買っていることは否定できない。「日本ら先進諸国が貧しい第三世界を搾取している」などというのは「疚しい良心」どころかとんだ思い上がりだったのかもしれない。

 貧困、搾取よりも疎外を、あるいは貧困としても「(多数派の)豊かさの中の(少数派の)貧困」を主眼とするような先進国の批判理論のリアリティは、馬場風に言えば「大衆的富裕」は既定の事実として変わりようがない、という認識に支えられていた。20世紀末以降の先進諸国における格差の拡大は、そうした認識を掘り崩し、先進諸国においてさえ再び貧困を問題化するに至ったといえよう。どういうことか?

 日本固有の事情と、先進諸国に共通の普遍的事情とを分けて考えた方がよいかもしれない。21世紀にはいってある程度経つとマクロ経済学者の間で「長期停滞論」が囁かれるようになり、バブル崩壊以降の日本の長期不況はその前例、先駆である可能性が議論されるようになったが、少なくともかつてはバブル期以降の日本の長期不況の直接的原因は構造的なものというより政策的なもの、バブルに対処すべくなされた急激な金融引き締めのオーバーシュートであり、それ以降も緊縮的な金融政策が長期にわたって維持されたことにある、とされた。この長期不況の中、かつては日本ではあの先進諸国に比べて圧倒的に少なかったとされた失業、不安定就労が悪化し、安定雇用の下で家庭を持つ、というライフサイクルが標準の位置から転げ落ちてしまい、格差を広げている、と。しかしながらこうした不況を免れていた多くの先進諸国においても、20世紀末以降は格差が拡大し、「中間層の没落」が囁かれている。そしてその理由のひとつは実は急激に進展した経済のグローバル化の下での一部の旧途上国の躍進、中進国を通り越して先進国の仲間入りするほどの成長がある。これはもちろんグローバルに言えば世界的な格差の縮小を帰結しているのであるが、これが逆説的にも、旧先進諸国における格差を広げている、というのである。単純に旧先進国の相対的地位が下がったというにとどまらず、旧先進国の中の一部の人々の生活水準を相対的のみならず絶対的に低下させ、不安定化させているのではないか、と。それは単純に言えば貿易障壁の低下、のみならず企業活動自体のボーダーレス化(グローバル・サプライ・チェーンの展開)によって、旧途上国と旧先進国の労働者がより直接的に競争関係に入った(最終製品が世界貿易市場で競争することによって間接的に競争するだけでは済まず、企業がより低賃金でより良質の労働力を求めて生産拠点を世界中に求めるようになることによって、「世界労働市場」のようなものができつつある)からである。旧途上国の工場労働者によって、先進国の工場労働者の地位は脅かされているのだ。後知恵になって恐縮だが、80年代の「日本型企業社会論」にはほとんどこうした可能性は射程に入っていなかった。もちろん日本を含めた企業活動のグローバル化はよく知られていたものの、そこで予想されていたのはせいぜい「日本モデル」の普及、先進国の豊かさ(と疎外)のトリクルダウン、スピルオーバーくらいでしかなかった。まさに日本が貿易摩擦において欧米を脅かしているのと同様に、将来においてインドや中国が日本を含めた先進諸国を脅かす可能性など、ほとんど真面目に議論されていなかった。

 上の議論は渡辺に代表されるような広義ニューレフトの批判理論を意識しているが、実際のところは馬場や小池ら、非ラディカルや保守にも当てはまるものだろう。

 

 

 

 

 

 

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