「公共政策論」講義メモ

 我々は市民社会の構成契機として、財産所有者としての市民たち、その市民たちの被保護者・被支配者としてともに家や団体を構成する人々、市民たちの財産、そして公共圏のインフラストラクチャー、を見てきた。ロック的な視点をとるならば、こうした市民社会はまずもって自然状態において確立しており、国家はそれを前提として成立する特異な団体である。どこが特異かといえば家や私的な団体、一般の共同体とは異なり、公共圏のインフラストラクチャーを維持することを主目的とする団体なのである。このような公的な団体は国家だけではなく、キリスト教会を含めた組織宗教、公共宗教の教会や、公開企業もまたそうであるが、それでも国家を典型とみなすことができよう(その理由は後述)。
 公共圏のインフラストラクチャー、現代風に言えば公共財の特徴は、市民たちの共有物であるがゆえに、誰でもが自由に、しかも無償で使用できるが、誰もそれを独占的に支配はできず、自由に処分することもできない、ということである。
 先に見たとおり、一部の私有財産は、その所有者の意志によって、その存在が公示され、しかるべき対価を支払えば他人にその所有権を移転することもできる。このように市場に売り物として公開されている私有財産は、その存在が公になっているという意味で開かれており、所有者の意思に反しては他人によって利用も支配も処分もできない、という意味で閉じている。公共財とはまずもって、こうした私有財産の存在の開示、公示を可能とするためのインフラストラクチャーを主体とする。公道や広場がそれにあたる。ロックのイメージにおいては、こうした公共財が人工物として用意されねばならないことの自覚が不足しており、あたかも自然の廣野や海洋(「公海」の意義についてはカール・シュミットが力説する通りではあるが)のみで市民社会の公共圏としては十分である、と言わんばかりである。そして確かに、自然の廣野や海洋もまた公共圏であること――人工物としての公道や広場よりも一層根元的な意味で――には違いないのである。
 家が時にそうであり、またある種の団体もまたそうであるのとは違い、国家はその構成員の私有財産を収用するわけではない。その構成員は市民として自らの財産を確保したうえで、それとは区別されたものとしての公共財への権利を保有している。このように、人々は私有財産、そして私有財産権をはじめとする権利を自然権として留保し、国家を形成してもそれを国家に全面的に譲渡はせず、せいぜいその一部を信託するのみであるという点において、それは共同体一般とは、とりわけそのメンバーが一切の権利、一切の個性を捨てて団体と一体化するタイプの共同体――出家修行者の修道団や理想的な共産主義コミューン――とは対極に位置する。このような特異なタイプの共同性を「公共性」と呼んでも別に構わないだろう。


 大体においてハーバーマスの市民的公共圏、市民社会についてのイメージは以上のようなものであるが、ロックよりはむしろ19世紀のジョン・ステュアート・ミルの方を念頭に置いているきらいがある。非常に乱暴に言えばハーバーマスのイメージは自由な市場経済と、リベラル・デモクラシーの国家との二重写しである。ロックの描く国家は必ずしも民主国家というわけではなく(契約に基づいた君主国家でもよい)、また私有財産とその自由な取引の行われる社会、貨幣のある商品経済ではあっても、そこにアダム・スミス的な自律的な市場メカニズムは想定されていない。
 やや踏み込むならば、アダム・スミスの自己調整的市場メカニズムは、ある程度政治の代替物として描かれている。一般の市民たちが、私的所有権や契約に基づく取引にかかわる一般的なルールさえ守れば、あとは公益のことは意に介さず、ただ自分の私的な利益だけを追求して行動していれば、自動的に公益が実現してしまう仕組みとしての開かれた自由な市場は、他人とコミュニケートし、共同しあるいは葛藤するという、広い意味での政治を不要にする、つまりその限りでは政治の代替物であると言える。そしてスミス的な世界では、そうした市場を支えるインフラストラクチャーの保持が国家の役割とされ、そこに政治の機能が集中することとなる。市場を中心とする平の市民同士の交流の世界を「市民社会」と呼ぶならば、市民社会から政治は排除され、国家、政府へと封じ込まれる。ミル、更にはある程度まではヘーゲルも、こうした国家と市民社会、政治と経済との分離の観念を共有している。しかしながらスミスに先立つロックには、そこまでの割り切りはない。
 更にスミスは、ミルはもちろんロックから比べても民主政、共和政から距離をとっている。『法学講義』に明らかなとおりスミスはロックとは異なり、国家論、統治権力論としての社会契約論をとらない。統治の目的は公益にあり、その内実は市民の幸福にあるとしても、統治の主体は市民で(ある必要)はない。
 だから特に『国富論』のスミスは二重の意味で政治を拒絶している、と言えるかもしれない。市民社会から政治を排除したのみならず、統治からもまた本来の意味での政治politicsの契機を抜き去り、それを単なる行政policeとしている、と。また当然にそこでは人の、市民の自由の意味もまた変容している。他人との不確実なコミュニケーションに賭けて共同しあるいは闘争する「政治」への自由ではなく、あらかじめ定められた法と、あたかも自然法則のごとく普遍的な市場の論理に従う限りで、他者の意思にかかわらず自由に行動できる「市場経済」「社会」における私的な自由こそが、市民的自由の本態であるかのごとく観念されている。


 ここで踏み込んで言うならば、スミス以降一個の独立したディシプリンとなっていく経済学において、「市場・対・政府」、「経済・対・政治」の対立構図は、「自由な市場経済(資本主義)・対・指令経済(社会主義)」やあるいは市場経済体制下での「小さな政府・対・大きな政府」、「ルール・対・裁量」といった形で何度も再演され、あたかも経済学という学問それ自体がよって立つ地平であるかのようにわれわれの目に映る。しかしながらこの対立構図、そこにおいて「政治」と理解されるものは、本来の――という言い方がミスリーディングだとしたら、伝統的な、あるいはもっと限定して、ここまでわれわれが論じてきた意味での「政治politics」ではない。それは現代的な言葉でいえばむしろ「行政administration」、あるいは狭い意味での、公共的意思決定としての「政治」と区別される限りでの、決定の実施としての「政策policy」である。political economyの言語としてのpolitical oeconomyとはそういうことだ。


 しかしながらミルの場合は、スミス的な市民社会市場経済の概念を継承しつつも、狭義の国家、統治権力という狭い領域に封じ込まれた政治の概念を活性化させている。政治と経済は(――更に「文化」や「社交」等々も?)互いに分離しつつも、いや分離することによってむしろ自由度、自律を増していく。経済的な威信と政治的、文化的威信は必ずしも連動せず、市民社会における様々な領域は、それぞれの論理と価値基準を発展させていく――ミルのみならずマックス・ウェーバーなども念頭に起きつつハーバーマスが展望するのが、このような市民社会、市民的公共圏のビジョンである。


 それでは「公共性の構造転換」とはどのような現象ということになるのか? 


大地のノモス―ヨーロッパ公法という国際法における

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陸と海と―世界史的一考察

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法学講義 (岩波文庫)

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