3月17日森建資先生退官記念講義「独立と従属の政治経済学」へのコメント(続)

(承前)


 やや繰り返しになるが、確認しておこう。古典的、あるいは共和主義的な「独立」とそれに基づく「自由」とは、財産権秩序の安定についてはその存立の前提としているが、市場経済についてはかならずしもそうではない。それはそもそも市場の外におかれ、市場には持ち出されず、市場による評価さえも受けないほどに強固に安定した財産の存在を前提としている。すなわち、生存について思い煩う必要がない、少なくとも自らの家、財産領域の外側の他人からの干渉に煩わされることがない、という状況を。そうした独立(武装の自弁も含むであろう)の上に、自由な市民としての政治的主体性が確保される、と。
 こうした「自由」と「独立」が前提とする古典的な市民社会理念の特徴は、我々にとっては、自由主義的なそれとの対比においてこそよく理解できる。
 古典的な、単なる財産所有者の共存状態、から一歩踏み出した、所有された財産が取引される市場としての自由主義市民社会では、理念的には市場に出されているものは何であれ、対価を支払えば誰でも手に入れることができる。これは誰にでも市場が開かれているということか、といえばやや問題は複雑である。「対価を支払わなければ手に入れられない」のであればそれは「閉じられている」という印象は禁じ得ないかもしれない。しかしながら、人は対価を支払うことができず、それを入手することはできなくとも、それを認識することはできる。その限りでやはり市場は開かれた場所である。財物は存在していてもその存在が公開され、周知されていなければ、「開かれている」とは言えない。
 すなわち、「開かれている」、あるいは公的であるということにはいくつかの水準がある。公道や公園、公共の広場がそうであるように、誰でも無償で利用できるという意味合いで公的に「開かれている」もの、公共圏のインフラストラクチャー、経済学風に言えば「公共財」と、一定の手順を踏み、しかるべき対価を払って初めて入手したりアクセスしたりできるもの、典型的には商品のような意味あいでそうであるものとは、当然に区別されねばならない。後者はまたある意味では私的に「閉じられたもの」であるが、非常に強い意味でのプライバシー、その存在自体が秘匿される、他者の認識から隠されるものとは区別されねばならない。
 ここでのポイントは、私的な領域ならびにそこに封じられたものたちには市場の手が及ばない、ということだ。売買の対象にならないどころか、そのための評価――値付けの対象にもならない。取引の対象となるのは労働・仕事を通じて生産されたもの、消費される種類物や、その他些細な動産である。それ以外に対価を支払わる「仕事」も考えられる。いずれにせよ生存を支える基本的な基盤それ自体は市場から、公共圏から隔離されて守られている。売買からだけではなく、貸借からもである。あるいはここで木庭顕を念頭に置くなら、我々はここではまだ、所有と占有の区別は必要としない、と言える。あるいはそこには占有のみがあり、いまだ所有は出現していない、とも。
 それに対して自由主義的な市民社会、とりわけ「資本主義」と呼びうるまでになった社会では、せんじ詰めればかつては公共圏から隔離されていたはずの私的な領域それ自体が商品化される――売買の対象となり、売買はされないまでも貸借の対象となり、それゆえ市場における評価にさらされる、というわけである。そこでは賃貸借という仕組みも日常化し、それもあって「占有」から明確に区別された「所有」の観念と制度も必要となるだろう。
 付言するならば「法人」なる仕組みも、「所有」のよきカウンターパートとして、理想的な所有の主体として要請されるのだろう。家もまた法人にその姿を似せるようになる。「所有」が「占有」から、具体的なゴーイング・コンサーン・バリューの保持から一歩離れたところで間接的にそれを支配し、最終的な残余利益をすべて吸収する仕組みであるとすれば、それにふさわしい主体は自然人やその具体的な集まり――家であれ共同体であれ――よりも、抽象的な権利義務の束であるところの「法人」の方であろう。
 結局のところ自由主義的な「独立」とは、市場経済の中で、その取引に日々参加しつつ、具体的な物財としてではなく、金銭的な価値としての財産を――言い換えるなら財産そのものというより財産価値をゴーイング・コンサーン・バリューとして支持し続けることを意味する。また「自由」も、市場のネットワークそのものに依存することによって、特定の主体の支配や統制から「独立」していることを意味することになる。
 そのように考えるならば、近代啓蒙の時代の思想家たちの多くが、奴隷ではなく自由人であるはずの雇人を、にもかかわらず市民的主体とは取り扱わなかった理由も、ある程度は理解できる。そこでの雇人は典型的には家内奉公人として捉えられている。すなわち、たとえ自由意思に基づく契約によって雇主と関係を結び、その雇用関係も有限期間のものであるにしても、一定の時間雇主の家に起居し、契約と両立しうる範囲内でその指揮命令に服するのであれば、それが自由な契約と自由な市場を介した関係ではあれ、雇用関係の継続する限りにおいては、雇用労働は自由な市場という公共圏での出来事ではなく、雇主の私的領域内での出来事である、ということになる。雇用関係の範囲内では、雇人は市場の匿名的な力からむしろ切断されて、雇主の私的な人格的支配に服する存在となる。この論理からすれば、雇人として独立を保つためには、むしろごくごく短期的な日雇である方が、雇用よりもむしろ請負に近い関係を雇主と取り結ぶことになり、特定の雇い主の人格的支配からの独立性は高い、ということになってしまう。
 ただ、十分な資産価値を保持し続けることに成功したとしても、それが公共圏から遮断された私秘性を確保しうる「私的領域」を形成しうるかどうかは、まったく別の問題である。というより、既に「資本」として値踏みされた時点で、それは決定的に市場によって汚染され、公私の区別は腐食しているのである。それゆえ「資本主義」の世界においては、「私的領域」は物理的実体性を保持することは難しく、観念化せざるをえないとはいえ公私の区分を確保して公共圏と私的領域の双方を保護するものとしての私有財産の難しさは、それがその内実においては不可視性が高いと同時に、その外形においてはむしろ可視的であるべきだ、というところにある。この意味においても「資本主義」的市民社会においては、真正な意味での――公共性を裏打ちするものとしての――プライバシーの確保は、極めて困難な課題となる。
 もちろんアーキテクチャとしては、分散的に各人に物理的な資源をまさに「私有財産」として割り当てることによってのみならず、主として公共財、公的なインフラストラクチャーによって、そこに各人の「居場所」を外側から割り当てることによって「私的領域」の確保に寄与する、という戦略も想定しうる。労働組合のみならず様々な協同組合の試みは、(おそらくは株式会社まで含めて)そのようなものとして解釈することもできなくはない。


(続く)