余剰モデルと消費貸借モデル再び

 木庭顕がマルセル・モース、レヴィ=ストロース、そしておそらくはカール・ポランニーを意識しつつ交換echangeというとき、それはいわゆる「贈与交換」のことであるが、ここで大事なことは、この「贈与交換」が時間の流れの中で行われる非対称的な営みである、ということだ。すなわちそこでは贈る側が先手を取り、贈られる側が受け身となる。これが「交換」である以上贈られた側は返礼をしなければならない。しかしそれは一見、貨幣経済の中での貸借関係のように見えて実は違う。貨幣経済の中での貸借は、貨幣を媒介とした等価関係が明快に定義できるようになっているが、貨幣という尺度が確立する以前の贈与―返礼関係にはこうした明快さが欠けている。性急な一般化は避けなければならないが、このような場合には先手がリーダーシップをとってしまう可能性が高いのではないだろうか。
 ポランニーの図式に従うならば、非市場的な取引様式のいま一つの類型は集権的「再分配」ということになるわけだが、上記のごとき「贈与交換」理解に従うならば、両者の間の距離は見かけよりはずっと近いことになる。すなわち、先手を打った贈与があまりに、つまり簡単には返し切れないほど大きく、返礼義務の圧力がきわめて重くなった場合には、贈った側は贈られた側に対して支配力を行使できることになる。ニーチェが『道徳の系譜学』で論じた、債権債務関係の根源性とは、このようなものではないか。
 そう考えるならば、市場における等価交換――典型的には、そこには交換される両項の価値を等しいものとして定義する貨幣が介在する――とは、こうした非対称関係を断ち切る仕組みとして解釈できることになる。木庭は市場的取引をこのような、極めて洗練された仕組み――法を、そして法のある社会としての市民社会を立ち上げる仕組みとして理解しようとする。
 市場的交換は、普通は時差を伴う贈与交換とは異なり、取引にかかわる両者が同時にことを起こし、あとくされを残さないことが基本である。そこでは贈与と返礼が同時に行われるため、両者の区別は消滅する。しかも同時に行われるため、両者の価値も等価とされる。この市場的交換が取引の基本形とされて、そこから贈与交換が再解釈されるならば、これは信用取引――典型的には金銭や食料などの消費貸借――ということになる。信用取引においても、贈与交換と同様の非対称性はもちろん残る――同時的な市場交換(物々交換、即金決済による売買)は取引の当事者が双方ともお互いに対して義務を負う双務的関係であるのに対して、贈与交換、そして信用取引においては、贈与した側、貸しを作った側、つまり債権者は贈られた側、借りを作った側、債務者に対して義務を負わず、債務者の方が一方的に義務を負う片務的関係である――が、そこに貨幣という明快な価値尺度が介在するならば、関係の透明性は格段に向上し、その分非対称性も緩和される。


 われわれの前には、いわば「経済学的」な自然状態論とでもいうべきものがある。つまり取引に先立っては、財産が各人に配分された自給自足状態が想定されるわけだが、そこからの第一歩、取引の開始への契機となるのは、余剰の発生である、と考えるのがここでいう「経済学的」自然状態論である。このような想定はロックにもスミスにも陰伏している。このように考えるならば、取引の基本形については返礼を期待しない純粋贈与、あるいは市場的な同時交換ということになる。しかしながらその反対に、取引の開始への契機を余剰ではなく欠如、不測の発生と考えてみるとすればどうか? すなわち災害など不測の事態によって、一部の人が自給自足ができなくなってしまった場合に、他からの贈与によってとりあえずしのがれ、後にその「借り」が返される、という形が取引の開始の基本形である、と考えるならば? 


 古典的なマルクス主義の、資本主義的蓄積と搾取についての理解は、「本源的蓄積」における政治的暴力の作用の問題を括弧にくくるならば、あくまでも形式的には対等な交換関係の中で、次第に蓄積の度合に差が生じ、それが大きくなる――という形で市場経済の中での経済的格差、不平等を理解する。その場合、取引に先立っては不平等は現実問題としてはもちろん存在しているだろうが、別に取引が起きるために不平等、格差が存在している必要はない。平等な社会でも取引への動機は生じる。しかしながら取引の基本形が同時的交換(即金決済による売買)よりは時差を伴った交換(信用取引、消費貸借)であるとするならば、格差、不平等は取引の開始の前からあるのみならず、それを開始させる駆動因そのものである。
 売買ではなく、貸借を基本に市場経済、資本主義全体を捉えよう、というプロジェクトは、ニーチェに想を得たドゥルーズ&ガタリのものであるが、彼らにおいては古典古代は集権的帝国を典型として理解されており、ギリシア=ローマ的市民社会の位置づけが不明確である。しかし以上のように考えるならば、貨幣によるその都度の決済を志向し、同時的交換、売買を典型として市場経済を捉えようという立場は、一面では資本主義の現実を糊塗するイデオロギーともいえようが、また一面では資本主義に内在する不平等化傾向を逆転はしないまでも歯止めをかける安全装置をそのただなかに求めようというスタンスであると言える。


 取引開始前の自然状態において、財産の配分が不平等であったとしても、財産保有者のそれぞれは各自の財産を活用して自給自足が可能であったとしたら、それぞれは独立して自由である、と言える。そこに取引が繁茂し始めるとしよう。そこでの取引において贈与交換、信用取引が支配的であったとしたら、単に不平等の程度が悪化するという以上に、一部の財産保有者の財産が、自給自足、独立を不可能にするまで削り取られる可能性がある。最悪の可能性は、抵当、担保の導入によって現実化する。信用取引においては、時差が伴うためどうしても現代経済学流にいう「モラル・ハザード」が発生する。とりわけ取引の対象が、消費されると消滅するような財である場合には、差し押さえが効かない。そのため、別のものを差し押さえの対象として担保する、という仕組みが発達する。しかしこれが極めて危険なのである。担保として差し出した財産を根こそぎ失う危険、あるいは人身そのものを担保とすることによって、債務が履行できずに奴隷となってしまう危険。アテナイのソロンの改革、あるいは共和政ローマにおけるグラックス兄弟の挫折等のエピソードを見れば、これが古典期市民社会における一大社会問題として意識されていたことがわかる。


 市場経済の中での取引を、あくまで即時決済の売買を中心とし、貸借――とりわけ消費貸借はしないとは言わないまでも一定の枠の中に収める――具体的には人身はもちろん、まとまった財産を担保とするような取引は行わない――という風にすれば、取引をかなりの程度無害化する――ほとんど自給自足の世界と同程度までに、各自の独立と自由をうまく守ることができそうであるように思われる。木庭が描き出す共和政ローマは、まさしくそうした理念の下にあったかのごとくである。
 だがそうした社会にも問題はある。そこでは、既に財産を保有している者の地位は安泰だが、何らかの理由で無産者としてこの社会に到来した者が成り上がるチャンスがきわめて少ない。無産者が財産を要する事業を行おうとするならば、既にある物財を賃借するか、あるいは金銭を借りて(消費貸借して)元手とするしかない。前者は比較的安全だが、自分の事業に都合の良い物財が既にある可能性はひどく低い以上、債務奴隷となる危険を冒してでも、後者に賭けるという選択に出る者が少なくないだろうことは想像に難くない。あるいはこの逆に、古典期ギリシア=ローマでは使役した奴隷を解放して自由人となし、自らの事業を承継させることも多かった。この場合解放奴隷は、自由人ではあるが元主人のリーダーシップに服する子分(クリエンテース)となるわけである。


 人身を抵当にとることを禁止した場合、無産者が成り上がれるチャンスが残されている社会においては、そのチャンスの実体に他ならぬ、無産者への信用供給に相当なボトルネックが生じることになる。すなわち、貸し倒れリスクゆえに無産者への与信に貸し手が及び腰となる。このような世界では全般的に無産者が活用できる資金、信用が不足せざるを得ない。協同組合の課題の一つはここにある。あるいはこの信用問題は、大資産家がアンフェアに政治的影響力を獲得し、市民社会の基盤を破壊する経路ともなりうる。


贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

ローマ法案内―現代の法律家のために

ローマ法案内―現代の法律家のために

現代日本法へのカタバシス

現代日本法へのカタバシス

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)