「9月22日『日本の起源』出版記念 中世化する日本?『平清盛』から『日本の起源』まで@ネイキッドロフト」へのフォロー

 当日は入場料負けてもらったかわりに壇上でしゃべらされましたのですがそのフォローアップのメモです。

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 與那覇潤『中国化する日本』の構想の重要な着想源のひとつ(参照文献の中にはあげられていないにもかかわらず、原論文「中国化論序説」などを見る限りではおそらくは最重要の)は、中国史足立啓二の『専制国家史論』などにおける中国史理解である。與那覇が「中国化」と呼ぶ傾向性は、足立がその研究において中華帝国の統治や社会の特性を日本、更には西欧のそれと比較して際立たせる時に用いる「専制」なる言葉がさすものと重なっている。(たとえば足立「一八〜一九世紀日中社会編成の構造比較」。)
 周知のとおり與那覇は『中国化』において古代末期、律令制導入以降の日本の歴史を、中国に範をとった集権的帝国化=中国化と、割拠型自治体制化=江戸化との間で引き裂かれたものと描いているが、この描像の新しさは主としてどこに由来するのか? 與那覇自身はそれほど意識してはいないようだが、ここでは、日本史学プロパーにはほとんど影響を与えていないものの、かつて日本の社会科学全般ならびに欧米の日本研究に対しても大きなインパクトを及ぼしたひとつの研究枠組を想起してみよう。すなわち、村上泰亮が中心となって打ち出した「イエ社会」論である。
 「イエ社会」論自体の発想は比較的単純であり、かつ由緒正しいものでもある。すなわち、なぜ日本がこれほどの短期間に、かつ非西欧世界の中で例外的に、スムーズに近代化を遂げられたのか――主権国家、資本主義経済を形成できたのか、という問いを立て、それに対して古代末期から中世初期にかけて形成された、武家を典型としつつも農村社会や商工民にも普及した組織原理としての「イエ」――血縁的親族集団・共同体を擬制した、多分に能力主義的な機能集団――のシステムが、西欧における近代的組織――法人企業や官僚機構――の代替物・機能的等価物をなした、という議論である。
 「イエ」社会論の流行自体は、90年代初頭に主唱者の村上が物故し、また同時期よりバブル崩壊以降の日本経済の長期停滞、自民党一党支配の「崩壊」と政党政治の混乱が起きたためもあって、高度成長期からバブル期までをパラダイムとした「日本社会論」全体の地盤沈下と運命を共にした。またその影響力の低下にあたっては、80年代後半以降顕著となった、新興工業経済(NIES)の勃興、中進国化も重要な意味を持ったであろう。しかしながらその発想の根底にある、「日本社会は西欧社会とは別様の形で、近代資本主義を実現したといえるのではないか」という疑問自体は、案外と広く共有され、死に絶えることはなかったのではないか。村上のような理論家ではなく、堅実な実証史家だった足立が例外的にものした一般書である『専制国家』は、「イエ社会」論への明示的な言及こそない(むしろ参照されるのは日本史学者の用いる「ムラ社会」論であるが、そこでも「イエ」概念は生きている)が、そうした問題意識に貫かれている。
 すなわちそこでは、西欧と日本は相当に異質な社会として理解されつつも、それでも「封建制」と呼びうる社会的機構が支配的だった時代をともに経由している、という点で似ているとされる。封建制とはおおざっぱに言えば、西欧の騎士や日本の武家といった、騎兵戦術を駆使する戦士貴族を首長とする、比較的小規模な共同体の自力救済による自治を主軸とする社会である。そこでは武家の個々の家のみならず後の大名の領国につながる武士団、あるいは農民や都市住民におけるイエの団体による自治が、領域的に割拠してなされていた。これに対して中華帝国は、戦士貴族や村落共同体の自治が弱体であるか、ほとんど成り立っていない、とされる。貴族は基本的に皇帝直属ないしそのピラミッドの下にある官僚であり、特定の地域への帰属は弱い。庶民もまたそうした官僚との恩顧関係や親族関係といった人的ネットワークへの依存が高く、土地への定着度は低い。
 乱暴に図式化すれば、中国においては極めて早期、少なくとも宋代には広域にわたる市場経済が確立して、統合性の高い貨幣制度(世界史上最初の紙幣)の下で商品経済が発展していた反面、私的所有権、ことに土地に対するその居住者・占有者の権利が弱かった。それゆえ、市場経済の発展が必ずしも、持続的な固定資本投資を必要とする資本主義の形成へと導かなかった、という解釈が可能となる。それに対して西欧や日本では、それぞれ多分に異なった形においてではあれ、そこにおける土地所有権の安定が、土地改良への、更には固定資本への設備投資へと導いた、ということになるわけである。
 ここで確認しておくべきことは、多くの場合非常にあいまいな無定義語として用いられる「資本主義」を、たとえばマルクスを真に受けて「労働力が商品化される市場経済」などと解釈してしまうことは大変に危険である、ということだ。むしろ定義するならば、正に「資本が商品化される市場経済」とした方がましであるが、今度は「資本」という言葉の定義が大問題になる。この語もまた「生産設備」という意味で用いられたり、あるいは「資金」というほどの意味にされてしまったり、多分に問題含みだからだ。
 ここではそれでもあえてマルクスの精神をくみ取って、「資本」を「持続的経営体」というほどの意味に理解して、「資本が商品化される市場経済」としてしまおう。ただこの場合、ある種の土地所有もまた「資本」の一種ということになってしまうが。資本主義の下では、たとえば株式という形で経営体の所有権が、それ自体商品として売買される。あるいは典型的には特定の人と人との間の商品化されない直接的な関係だった貸借(ひと口に「貸借」とはいっても、土地や資本設備などの「賃貸借」と、金銭や商品の「消費貸借」は大いに異なるのだがそれはさておき)もまた「証券化」といった形で商品化されてしまう。こうした「資本主義」化が普通の意味での生産的な「投資」に寄与するかどうかは、実は状況によると考えた方がよいだろう。投資の持続、資本蓄積にとっては私的所有権の安定こそがむしろ重要であり、市場経済の深化、特に「資本主義」化がつねにそれに対してプラスであるかどうかは自明ではない。


日本の起源 (atプラス叢書05)

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中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

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専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

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明清中国の経済構造 (汲古叢書)

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