3月17日森建資先生退官記念講義「独立と従属の政治経済学」へのコメント(続)

(承前)

 他方で森は一人一人の生身の人間、とりわけ小農や労働者、というミクロな単位においてのみならず、マクロな「国民経済」という単位においても「独立と従属」について考えようとした。レオポルド・エイメリーへの着目(「エイメリーとイギリス帝国主義」)、更に『イギリス農業政策史』「1950年代の日英通商関係」と続く一連の作業は、農業政策と通商政策に止目しつつ、「国民経済」という観念の運命を考察しようとしたものと解釈することができる。
 エイメリーら19世紀末から20世紀初めのイギリス帝国主義者たちは、森によればいわゆる「帝国主義者」、巨大な大英帝国による世界支配を志向する覇権論者などではなく、むしろ帝国経済圏というバッファを利用して、ローカルでナショナルなイギリスの経済的自立を確保しようとする国民経済論者である。彼らの思想的原点はいわゆるドイツ歴史学派の原点、フリードリヒ・リストに、更にはスミス以前の重商主義者たちにまでさかのぼることができる。
 そこにおいてはもちろん、経済の実物的、使用価値的側面に着目した「農工バランス論」や、世界大戦を背景として切実なリアリティをもった「経済安全保障」「自給自足」といった「国民経済」レベル、つまりは国家レベルでのアウタルキー的な「独立」観念が影を落としていた。しかし、森はこれに表立っては論及してはいないが、そうした思考には、他方ではリスト以来の「市民社会の基盤は小規模自作農である」という思想が遠くこだましているとは言えないだろうか? 森が読みとくエイメリーにおいては、個人の姿は後景に退き、もっぱら国民経済、国家がクローズアップされているが……。しかしここであえて、森自身は必ずしもうまく統合できているとは言えない、彼の雇用労働者の「独立」論と、国民経済の「独立」論をつなぐために、無理押しをしてみよう。
 リスト自身は『農業制度論』を読めばわかるように、ナショナリストであると同時に市民社会主義者である。ただしリストにおいては、市民のパラダイムが商工業者、ブルジョワジーと同程度に農業者に――もっとも、大土地所有貴族というより小農にも求められている。彼の構想では、小土地所有に立脚した自作農が健全な市民社会と国家の基礎であり、彼らを守るためにこそ、管理貿易構想や移民政策が論じられるのである。
 このような発想がイギリス帝国の移民政策にとってもつ含意は不分明であるが、意外なことに、むしろ我々は近代日本の歴史の中に、その対応物を見つけることができるのではないだろうか? 「満蒙は日本の生命線」と称し、日本国内では増え続ける人口を支えられず、とりわけ土地・農業生産が足りないので、日本は移民(移出民)を必要とし、そして移民の行き先としての植民地を必要とする、というかつての「日本帝国主義」を。そしてもちろん我々は、そうした帝国主義に対しては、既に同時代に石橋湛山自由貿易主義に立脚した「小日本主義」を唱えて全面批判を展開しており、結果的にはその批判は完全に正しかったことも。


 非常に単純化して言えば、「財産所有による独立」の観念は、民法学などで「取引の動的安全と静的安全」といった言葉づかいで意識されているように、実はあるところまで突き詰めると、経済的自由主義とは、自由な市場経済とは敵対的な関係に立たざるを得ない。
 個別の具体的な財産権、特に所有権、占有権といった物権の保障のためには、それが市場における売買や信用取引からある程度隔離されている方が望ましい。地主貴族にとっての所領や、農業労働者の小土地保有や入会権とはそういったものとして観念されている。具体的な使用価値に固執するという意味では、農業のみならず製造業まで含めての保護主義一般もまた、同様の発想であり、労働組合主義もしばしば、こうした思考に行きつく。
 だがそうした「財産所有による独立」、具体的なものと生活空間としての財産への固執、は自由な市場経済の運動とは――あえて言えば「資本主義」とは、トレードオフの関係にある。
 もちろん自由な市場経済も、財産権秩序のそれなりの安定なしには成り立ちえない。財産権秩序の安定、占有権、所有権の安定なくしては労働も投資もまともに行われえない。しかしながら資本主義とは、誤解を招く言い方をあえてすれば、単なる市場経済ではない。すなわち、技術が一定不変のままで、所与の技術の下での効率よい生産と、自由な取引を通じた資源と製品の効率的な配分が行われれば、それで終わりではない。競争圧力は生産技術、交通通信技術それ自体の変化、革新を促し、実体的な生産力はスクラップアンドビルドを繰り返す。すなわち、そこでは制度としての財産権は強力に安定していることが望ましいが、個々の具体的な財産権の内容は、制度的な秩序が維持されている限りにおいて、ダイナミックに変化していかざるを得ない。非常に乱暴に言えば、そこで維持されねばならないのは、貨幣換算した=交換価値のレベルでの財産価値であって、具体的な実物としての財産ではない。それは動産についてはもちろんのこと、不動産にまで及ぶし、無体財産としての知識や技能にまで及ぶ。
 このような資本主義の運動は、言うまでもなく、アレントらが言うような意味での古典的な秩序、公共圏と私的領域の分離の上での共存にとっては脅威である。その中で、実体的な生産力や具体的な財産権からある程度浮上した、いまやアレントカール・シュミットが言う意味でのノモスではなく、抽象的な観念の論理空間へとますます近づいていく法世界において、辛うじてそうした秩序を守ろうとするとき、一方では、過渡的にはある程度「家」「家族」もある程度は助けになるが、結局はそうした「家」も解体されて土地や生活環境から引きはがされた生身の人間と「人権」概念がせりあがってくる。そして他方では言うまでもなく、古典古代人は知らなかった「法人」という観念もまた。
 しかしながら、ここでどうしても生身の個人は「法人」に対して後れを取らざるを得ない。全体としての市場経済の中で産業構造が転換し、新陳代謝が繰り返される中で、もちろん多くの企業は消滅しまた新たな企業が生まれてくるわけだが、原理的には「法人」企業はそうした新陳代謝のプロセスを超えて不死でありうる。巨大な法人企業であれば、組織を拡張し、複雑化させて多業種を同時展開し、市場経済の動向に反応して、衰退部門を縮小して成長部門を拡充する、という新陳代謝を自己の中で繰り返すことができる。
 もちろん人間も学習し、成長し、変容することが――ここでの文脈でいえば転職し転業していくことはできるが、それでもどうしても有限な身体に縛り付けられた存在であり、学習を通じた成長、変容にも限界がある。
 かくして、資本主義的公共圏の(そして私有財産においても)主役は、株式会社を典型とした法人とならざるを得ず、国家などの生身の人間と具体的な土地から離れられない生活共同体もまた、法人として自己を定義するようになる。しかしながら資本主義においては、その最有力法人であるところの株式会社は、やろうと思えばそれ自体丸ごと商品として売買可能な存在でもある。その意味では、株式会社はいつ何時「人」ならざる単なる「もの」として、公共圏から放逐されるかわからない存在である。あくまでも建前としては、それ自体を商品としては売買されるべきではない、と普通認められている自然人の方が、法人よりも不可侵で神聖な存在とされてはいるのだ。
 このように、資本主義の下では公共圏と私有財産は、絶えず強力な分解作用を受け続けている。そこで、今一度問わねばならない。そのような状況下での「独立」とは一体何であろうか? とりわけ、個人の「独立」とは資本主義の下では何を意味するのか? 


 かつて救貧法改正に際して雇用労働者たちに対して勧められ/強制された「独立」は、古典的な「独立」の観点からすれば無論、独立でもなんでもない。公的救済に「従属」するかわりに、とりあえずは雇主に「従属」することを「独立」と言い換えた、といえば言えなくもない。ただ、それは単なる欺瞞、詭弁とも言い難い。何となれば雇主の方も、すでに古典的な意味での、財産所有者としての「独立」をどんどん掘り崩され、国家以上にたちの悪い市場の無名の力に圧倒されているからであり、この市場の力は、時と場合によっては雇主よりも雇人に味方してくれることもあるからだ。雇主への、多分に人格的な「従属」を圧倒する、市場の、資本主義の無人称的な力への「従属」。この新しい「従属」の別の名が、産業革命以降の、あえて言えば自由主義的な「独立」であるとは言えないか。
 そうした自由主義的「独立」が、古典的、あるいはあえて言ってしまえば共和主義的「独立」に対して優越する局面は当然にある。それはたとえば管理貿易と植民地経営を手放せない帝国主義に対する、植民地否定の自由貿易体制の優越性を見れば瞭然であろう。移民それ自体を否定する必要はないが、軍事的拡張主義と相携えた移民政策は対外侵略と棄民の抱き合わせにしかなるまい。リストや日本帝国主義の移民論は結局はこうしたものであり、暗黙の裡に、人的資源の部門間移動――転職や世代間の社会移動――の可能性を無視している。無論それとても大変な難事業ではあるが、侵略的移民政策に比べればはるかに問題が少ないはずだ。
 しかしながらこのケースにおいて対立しているのは、政治原理としての自由主義と共和主義ではなく、政策指針としての自由主義国家主義重商主義である、というべきである。そして共和主義と重商主義は、親和的かもしれないが不可分でもないだろう。
 それでは、自由主義と共和主義とは、政治原理と政策指針の双方のレベルにおいて、果たしてどの程度両立可能なのであろうか?
(続く)

農地制度論 (1974年) (岩波文庫)

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石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

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 ノモスについては言うまでもなく建築学会シンポへのコメントを、また

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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大地のノモス―ヨーロッパ公法という国際法における

大地のノモス―ヨーロッパ公法という国際法における

を参照。
 「経営主体自身もまた売買の対象となってしまうような市場経済」という資本主義定義については、拙著
「公共性」論

「公共性」論

参照のこと。