終了してない(1)

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080904/p1
 論争はディベートにはならずに無秩序に広がりながらそれぞれに論点を深めたり増やしたりしていけばいいと思います。


 まず、mojimoji氏も肯定的に触れている拙ブログへのoさんのコメントに従って、もう一度mojimoji氏の問題意識について復習します。

山形さんの「GDP 概念やその比較を否定するのは愚かなことだよ」という主張はもちろん、その通りなのだけど、Mojimojiさんの議論はGDP指標を否定するものではなく、単にGDP指標によっては比較不可能な社会的選択問題がある事を強調しているだけですから、これも議論が噛み合っていません。

GDP 概念が強力なツールである事は言うまでもないですが、それだけで事足りるのであれば、社会厚生関数についてのサミュエルソンたちのような議論が出てくる必要も無かったわけで、じゃあどういう社会厚生関数でいくべきか(つまり、どういう社会的な価値判断をするべきか)についての社会的選択がありますよ、というのがMojimojiさんの議論の要諦でしょう。

 それぞれに異なる社会的状態を、たった一つの数字で要約して、一本の線に並べて「どっちがよい、どっちがよくない」という風に比較することは、一般的にはできない、というより、そういうやり方はいくらでもあって、そのうちのどれがベストかなんてことは決められない。そういうことでよろしいでしょうか? それはもっともだと思います。全然無意味でもないけれど、その意義は当然限定されている。その意味で、GDPという数字の社会的指標としての意義にはかなりの限界がある。しかしそれはおそらくHDI人間開発指数)その他一つの数字でもってある単位の社会の厚生的な状態を表現しようという試みすべてについて言えますね。
 常識的には、ある社会の状態を、もちろん近似にすぎないとしても、ある数字で表さなければならないとしたら、それは一個の数字ではなく、いくつかの数字の組、ベクトルにならざるを得ないでしょう。たとえばHDIはおおざっぱに言うと国ごとの成人識字率(15歳以上)、総就学率、一人当たりGDP、平均寿命という四つの数字ををウェイト付けして一つの数字に合成しているわけだけれども、これを素直に四次元ベクトルとしてしまってもよい。あるいは、国レベルではともかく、個人レベルでは所得はその厚生水準のよい代理指標である(合理的な主体にはNM効用関数を帰属させることができるがゆえに云々)、と仮定して、すべての個人の所得水準を並べた、人口分の次元を備えたベクトル「所得分配プロフィール」でもよい。


 ここからが問題です。ぼくの理解が誤っていたらキチンと指摘していただきたいのですが、こういう多次元ベクトルで表示された社会的状態の間の一次元的な比較と評価付けは、できないのではなくて、いくらでもできるし、それぞれの個人が合理的な主体だと想定するならば、意識的にであれ無意識的にであれ、そうしていると考えざるを得ない、ということですね? 
 たとえば極端に単細胞な生産力至上主義者(市場原理主義者か古典マルクス主義者かそれはともかく)がいたとして、その個人がたとえば先のHDIの原型である四次元ベクトルで表示された社会状態の集合に対して、四つの数字の中のGDP以外を全く無視して、GDPの大小の順にすべてのベクトルを並べたとしても、それはそれで理にかなっている。
 あるいはまた極端なエゴイストがいたとしましょう。今度は社会状態は「所得分配プロフィール」で表示されるとする。この場合そのエゴイストは、他人のことなんかどうでもよいから、ひたすらその中での自分のありうる所得水準にのみ関心を集中し、自分の所得の大小に応じてありうべき「所得分配プロフィール」の間に優劣をつける。これもまたそれなりに理にかなっている。
 このように、あくまでも個人ベースでは、たとえそれが一つの数字ではなく、多次元ベクトルで表示されていたとしても、複数の社会状態の間に、一次元的な優劣をつけることは可能である、と。
 しかしながら当然、社会にはそのような個人が複数存在し、可能性としては、人口の数だけの、個人的な社会状態についての評価基準が存在する。そしてもちろん、それらの人数分の社会評価基準を組み合わせて、たった一つの社会的評価基準(これが「社会的厚生関数」でいいのかな?)を作りだすことも、いくらでもできる――ただし、ケネス・アロウが指摘したとおり、定義域の非限定性、全会一致性、無関係な選択対象からの独立性、非独裁性をすべて満たすものはできない。前の三つの条件を満たした社会的厚生関数は、独裁的なものにならざるを得ない――つまり、他のみんながどのような評価基準を持っていようとも、ある特定の個人の評価基準がそのまま、社会的厚生関数にインポートされる――。


 ここまではよろしいでしょうか? ここまでについては「僕はこう考えるが世間には違う意見の人もいる」というような話ではなく、明確に「お前の言ってることはもっともだ/いや間違ってる」と決着がつく話だと思うのですが。


 あとでご指導を頂いたら適宜誤りなど修正することにして、先に行きます。アロウの定理その他の社会的選択理論におけるいろいろな「パラドックス」の指摘について、どう考えるべきか。一つの解釈としては、「個人個人の価値観を合成して、みんなが納得するような社会的評価を作りだすような自動的アルゴリズムは存在しないんだから、社会的評価を作ろうと思えば、しんどい「政治」に身を投じないわけにはいかないよ」というものがあると思います。たぶんmojimoji氏の言いたいことの一部はそういうことでしょうか。だとしたらそれについては全面的に賛成します。しかしその「政治」とは、具体的にはいったいどのようなプロセスでしょうか? ここからが真の問題なのでしょう。


 この問題については措いておいて、項を改めて別の問題に行きます。