oさんのコメントより(続々々々)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080918/p1
より引き続き。


 復習すると、もともとの問題がどこにあったかといえば、mojimoji氏の論点がGDPを「社会指標」とみなすことへの異議にあったとすれば(要検討)、おそらく山形氏はGDPを普通の意味での「社会指標」としては――直接にそれでもって社会の状態の善し悪しを評価する尺度としては考えていなかったのである。(まあそれほど自覚的で明晰ではなかったろうが、突き詰めれば?)要するに彼が言いたかったのは生産力、生産技術のことであって、つまり効用とかロールズ的意味での基本財のレベルにはなかった。あえて言えばドウォーキン的な意味での「資源」だのセン的な意味での「ケイパビリティー」の方がまだしもだが、たぶんそれとも違う。身も蓋もなく「生産力」と言ってしまうのが一番だろう。
 しかしながら生産力の向上・生産性の向上なる概念もまた実はあいまいで、それもまた一次元的には評価しきれないことは注意せねばならない。少なくとも理論的には。理論的に紛れなく一次元的に評価するには、すべての技術革新をではなく、ヒックス的中立性などある一定の基準をクリアしたそれ――たとえば総要素生産性の改善、に限定しなければならないのではないか。


 もうひとつ思いつかれる疑問は、このような言い回しは「リフレ派」っぽくはなくむしろ「構造改革派」「上げ潮派」的な印象を与えかねないのでは、ということでもある。あまりにサプライサイドを重視しすぎだ、と。
 ここで落ち着いて考えるべきは、やはり問題の水準の切り分けだろう。「完全雇用をどうやって達成するか」という問いと、「ありうる複数の完全雇用軌道のうち、どれを選ぶか」という問いはレベルが違う。
 たとえばここで「仮説的補償原理」の議論を不用意に持ち出すと、話を錯綜させてしまう。というのはこの思考法は「優劣が付けられない二つの完全雇用状態A、Bのうち、Bについて再分配を行いB'とし、それによって不完全雇用化するというコストを払いつつ、Aより明確に優位に立つものとする」という発想である。そうすると、「「完全雇用状態が不完全雇用状態よりつねによい」とは必ずしも言えない」という結論が出てきてしまいそうだからだ。「完全雇用と不完全雇用、どちらがましか」はあくまでも、同じ完全雇用軌道上の経済についてのみ意味を持つ議論である。


 その上でいま一度、本来あるべきだった山形氏の疑問について考えてみるとおそらくは「そもそもありうべき複数の完全雇用軌道の集合とは何か? そもそも我々はそれをどこまで知りうるのか? また政治的選択は正しくこの集合を対象として行われようとしているのか?」であろう。残念ながらこれは合理的選択理論の土俵にはそのままでは乗りえない疑問である。合理的選択理論の枠組みでは、そもそも実行不可能なものごとは選択肢として列挙されないはずだからだ。これを取り扱うためには、「実行不可能な(という意味では明らかに非合理的な)選択肢が政治的選択の対象として公的な議論の対象になってしまうことは十分にありうる(「実行可能性」云々とは別の水準で合理的である)」ということをきちんと議論の対象とする枠組みが必要なわけだ。