oさんのコメントより(続)

 ネット上ではみんな飽きっぽいよね。それはともかく
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080909/p1
の続きということで、改めて「仮説的補償原理」について勉強してみたよ。


 非常におおざっぱにいえば、こういう状況が想定されていると考えるよ。
・まず最初の状態Xにおいて、競争的均衡が実現され、パレート最適なある配分xが実現されているとする。
・続いて、社会の構成メンバーには変化がなく、もちろん各メンバーの効用関数にも変化はないと想定したうえで、ある政策が導入され、その結果状態Yに移行したとする。この状態変化とは具体的には、消費可能な財の集合の変化、そしてあるいは生産技術体系・資源の集合の変化として解釈することができる。その上で、Yにおいても競争を通じてパレート最適な配分yが実現したとしよう。
・一般にxとyとの間にパレート基準であっさりと優劣をつけられる保障はない。ある人の効用は増加しても、他の人の効用は減少してしまっているかもしれない。
・ここでYの状況下で、そのままyを実現するのではなく、何らかの手段でもって所得再分配を行って、xよりもパレートの意味で優越している配分y'が実現できるとしよう。そうなれば、もちろんあくまでもこの再分配政策とのセットではあれ、XからYへの移行を行う政策が、パレート的な考え方にそむくことなく、正当化できるのではないか。


 さてこの仮説的補償の考え方とて万能ではないことは、吉原さんの連載などでも指摘されているし、以前からこだわっているように、世代間倫理を気にしなければいけない(メンバーの効用関数の同一性はもちろんのこと、メンバーの同一性それ自体が保たれない)ケースもまたその射程から外れてしまう(もっとこの問題をみんな気にした方が良いと思うが)わけだが、それは措いとくよ。
 ここではもう少し手前の問題について考えてみるよ。
 政策によって変更可能なものは、いったい何だろうか? 吉原さんが例に挙げているのは、一国を単位として想定した上での、貿易政策だ。こういう政策ならその実行可能性、それによる消費可能な財の集合の変化の大きさという意味でのその有効性に、それほど疑問はない。
 しかしたとえば「生産技術体系」なんてものについては、少なくとも短期的に政策的に操作できるような代物ではないだろう。厳密に区別するとなったらおおごとだけれども、制度的なファクターと技術的なファクターとは一応区別し、経済政策は短期的にはもっぱら前者をターゲットとする、と考えるべきなのでは。


 何が言いたいかといえば、先の「論争」でのすれ違いの原因は、「GDP重視」側が問題をうまく定式化できなかったことにあったとして、そこで本当に言われるべきだったのは「指標としてのGDPが大事」とか「政策目標よりサプライサイドが大事」とかではなく、「消費可能な財の集合・生産技術体系が大事」ということだったのかな、と。