新しい終末論(ないしそれに代わる歴史目的論)としての長期主義

 マッカスキルを読んで面白いと思ったのは、長期主義は新しいタイプの終末論というか、歴史目的論だなというところ。コジェーヴを引き継いだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論なんかもあるし、そうするとそれらを踏まえた東浩紀動物化論も終末論と言えるのかもしれないが、分析的伝統に立った哲学的倫理学においてこういう形で歴史哲学の復権が起こるとすると面白い。
 もちろん終末論といってよいかどうかはわからないが人類絶滅の可能性、存亡リスクについてはかねてからボストロムが論じてきたところではあり、その背景には当然終末論法、そして人間原理宇宙論がある。ただボストロム自身は存亡リスクを深刻に受け止めている一方で終末論法自体は受容していなかったのではないか。
 人間原理は(語弊のある言い方をすれば)この現時点における人類文明を(人によってはその一員である論者自身の実存を)開闢いらいの全宇宙史の帰結として位置づける。これをやりようによってはヘーゲルの歴史の理性と同型のものとして解釈することだってできるわけで、そうするとまさにそれは現在を歴史の終わり、全自然史の目的として特権化することになる。ただ長期主義の面白いところは、現在を「歴史の終わり」としてそこで話を止めるのではなく、むしろその先の長い未来をこそ主題化することだ。
 にもかかわらずマッカスキルは、この私たちの現在をある意味で特権化する。つまり産業革命前後から今日まで、人類社会は人口や生産力で測ってパーセントのオーダーでの成長を遂げてきたわけであるが、これは過去の人類史で言えばほんのつい最近のことであるのみならず、未来においてもこれほどの高成長は持続しえない、というのである。マッカスキルは古いタイプの保守的エコロジストではなく、人類の宇宙進出の可能性も考慮に入れている。しかし仮にそうだとしても、パーセントのオーダーでの成長は早晩止まらざるを得ない、と論じるのだ。思えばかつてドーキンスも『利己的な遺伝子』でパーセントのオーダーでの人口増加が続けばあっという間に既知の宇宙が充満してしまう、と指摘していたが、マッカスキルはもう少し真面目な計算で同様の指摘を行う。彼の指摘を真に受けるなら、パーセントのオーダーでの成長が可能な未来はせいぜい数百年のオーダーということになる。仮にこの見立てが厳しすぎたとしても、一桁上げても数千年であり、宇宙論どころか地球物理学的にも大した時間ではない。
 既に宇宙論の研究者によって、宇宙膨張ゆえに観測可能な宇宙の範囲自体がやがて相対的に狭まり、あらゆる天体はやがて光速を超えて我々から遠ざかって観測不可能になり、観測可能――つまりは到達可能な範囲は局所銀河群に限られしまう、と我々は指摘されていたはずである。ということは仮に人類が滅びずに何億年というオーダーで生き延び、宇宙に広がっていったとしても、いずれは利用可能な物理的資源の限界にぶつかるということである。もちろんその利用効率を上げていくことは可能だろうが、それにも上限が存在する可能性は高い。
 だからマッカスキルの長期主義は、かつての終末論とは別の形での歴史の目的論、現在という時代の特権化を行う論法として注目に値する。これまでの歴史の目的論はほとんどの場合現在ないし至近の未来を「歴史の終わり」、ひとつの大事業としての人類史の到達目標として特権化するものであった。長期主義はそれとはやや異なるタイプの歴史哲学を提示しようとしている。