アレントの奇妙なリベラリズム

 なぜアレントは「社会問題」(貧困問題)は政治の手には負えないと言ったのか? その真意は?


 アレントは(いわゆる)共和主義者か?

 問題は、人民全体が参加できるような公的空間、そしてそこからエリートが選択される、というよりむしろエリートが自分自身を選択することのできるような公的空間が、欠如している点にある。

ハンナ・アレント『革命について』(ちくま学芸文庫)、438頁

 [評議会は]、今日の大衆社会を、疑似政治的大衆運動を形成しようとするその危険な傾向ともども、解体するのに最良の道具である。あるいはむしろ、大衆社会を、だれからも選ばれず自らを構成している「エリート」によって、その根底から分散させるのにもっとも自然で最良の方法である。したがって、公的幸福の喜びと公的任務の責任は、公的自由の趣味をもち、それなしには「幸福」でありえないような、あらゆる職業分野からきた少数の人々の共有物となるだろう。政治的には彼らは最良の人たちであり、公的領域において正当な地位を彼らに確保してやるのは、良い統治の任務であり、秩序正しい共和国のしるしである。たしかにこのような「貴族政的な」統治形態は、今日理解されているような普通選挙の終わりを意味するであろう。「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを表明した人だけが、共和国の業務を遂行するうえで発言する権利をもつだろうからである。しかし、このような政治からの排除は不名誉なものではないはずである。というのは、政治的エリートは、社会的・文化的・専門職業的エリートとけっして同じものではないからである。さらに、この排除は外部の団体によるものではない。政治的エリートに属する人が自分で自分を選択するとすれば、それに属さない人は自分で自分を排除していることになるからである。このような自己排除は、恣意的な差別どころか、われわれが古代世界の終り以来享受しているもっとも重要なネガティヴな自由〔リバティ〕の一つ、すなわち政治からの自由に、本当に実質とリアリティを与えるものであろう。

同上、441-442頁


 非常に良くわかる、といいたいところだが、突っ込みたくもなる。
 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070427/p2における毛利透が導きの糸とするアレントはこういうアレントなのだが、これはいったいなんなのだろうか。
 アレントはシュミット同様、「権威」と「権力」の区別にこだわるわけだが、ここでの「エリート」は権威者なのか、権力の主体なのか、どちらなんだろう。
 近代における権威と権力の区別の忘却と権威の衰退をアレントは嘆いているわけだが、ひょっとしたら彼女自身ごっちゃになっているのではないか。ここでアレントがいう「政治的エリート」なるものが成立しうるとして、果たしてそれは権威なのか権力なのか。
 ぼくの意見としては、「社会的・文化的・専門職業的エリート」が権威を、そしてこの「政治的エリート」が権力を担う、というのがありうべきリベラル・デモクラシーなんではないか。