Daron Acemoglu & James A. Robinson, Why Nations Fail (Crown Business)

Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty

Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty

 とりあえず読み終わったので、現在書いているメモから抜粋。
============

 Daron Acemogluらの研究グループによる「成長の政治経済学Political Economy of Growth」の研究プロジェクトにおける一つの論点は、包括的inclusiveな政治制度≒民主政と、包括的な経済制度≒自由な(開放的で公平な)市場経済との相互依存(好循環)、それと裏腹の略奪的extactiveな政治制度――権威主義的独裁等――と、略奪的な経済制度――奴隷制農奴制等――との相互依存(悪循環)というメカニズムの存在の主張である。
 一時期のいわゆる開発独裁(1980年代頃の開発経済学でいわれた「韓国モデル」)や、あるいは第二次大戦後のソ連の高度成長など、略奪的政治制度の下でも一定の経済成長がみられたが、Acemogluらによればそうした成長は持続可能ではない。それは後発性の利益などの好条件による短期的なものである。何より略奪的政治制度の下では、(仮に計画・指令型経済が弱く、自由な市場経済制度が優越していたとしても)創造的破壊による技術革新への許容度が極めて低い。それは既存の産業構造を揺るがすことを通じて、既得権益に対して破壊的にはたらく。政治体制を支配するエリートの経済的基盤が揺るがされることを、略奪的政治制度は許さない。それゆえ、略奪的政治制度の下では、一見、政府による統制が緩められ、自由な市場競争がある程度進んだとしても、そうした規制緩和の限界はすぐに訪れる。つまり、略奪的政治制度の下では、包括的、開放的な経済制度は持続可能ではなく、あるいは一定の限界内に押し込まれる。こうした理解に立ちAcomogluらは、たとえば中国の経済発展も、現在の政治体制の下では長期的には限界に突き当たる、と予想している。
 逆に、包括的な政治制度としての民主政の方も、包括的な経済制度としての自由で開放的な市場経済に支えられないと、やはり持続が難しい、とAcemogluらは判断する。財産、とりわけ土地の社会的な分配が著しく不平等な状態で仮に形式的に著しく進んだ民主政が導入されると、急進的な再分配政策、社会改革などの進行が、富裕な社会的エリート層の危機感を煽り、クーデターの危険を高める。独立以降のラテンアメリカの、クーデターが反復される不安定な政治情勢は、このような観点から理解される、という。


 この理論はひとつの仮説としては有力であり、このメカニズムで理解可能な現実の出来事は多々あるとは思われるが、さてその通用性がどこまで高いか、については議論の余地は当然にあるだろう。とりわけ包括的―略奪的政治制度にせよ経済制度にせよ、そこには程度の差というものがあるのであるし、またその程度を測る指標が一時限的なものとも限らない。更に、この理論は進行するプロセスとその定常均衡について論じるためには便利だが、歴史的な「起源」問題を解くには不向きかもしれない。持続的経済成長のためには、包括的政治制度と包括的経済制度の両方がそろっていることが望ましい、とは言えるだろうし、現実にこれまでに生起した持続的経済成長が、包括的政治制度と包括的経済制度の好循環を生み出し、それによって支えられている、ということもできるだろう。しかし、そうした成長過程のそもそもの端緒、離陸の過程においては何が起きたのか――僥倖によって包括的政治制度と包括的経済制度の双方がほぼ同時に発生したのか、それともどちらかが先行したのか、を考える際に、どの程度役に立つのか、はさだかではない。
 実際Acemogluら自身もこのいわば「起源」問題については極めて禁欲的である。彼らの記述からあえて包括的な制度セットの「離陸」のありうべきメカニズムを定式化するならば、包括的な政治制度の確立(≒民主革命)が、一部の社会集団によってではなく、ある程度多元的な諸集団・諸運動の広範な連携によって達成される、というものであるが、そういうプロセスが進行するためにも一定の幸運な諸条件が満たされている必要がある。
 まずそもそも、この理論に従えば――それは事実認識として適格であるが――人類社会の歴史において、「自然」なデフォルトの「常態」であるのは、略奪的な制度セットの方である。ただしこの略奪的な制度セットにもさまざまなバリエーションが考えられる。一方の極には、略奪的政治制度における支配的エリートの実力が脆弱であるような状況が考えられる。このような状態では、支配者の地位に伴ううまみを羨望するライバルによる挑戦が頻発し、社会が潜在的あるいは顕在的な内戦常態になる。つまりはアナーキーであるが、現代において「破綻国家」と呼ばれる状況は、これにあたると思われる。このような状況では、広範な諸勢力の結集による「革命」は極めてありそうになく、具体的な支配者は入れ替わりつつも、略奪的制度構造それ自体は持続する、という可能性が高い。
 他方の極に、支配者が圧倒的な実力を持ち、ことに暴力行使を独占しているような状態が考えられる。Acemogluらによれば、包括的制度セットの「離陸」のためには、このように略奪的ではあっても十分に集権的で安定した政治制度が確立していることが、ほぼ必須の前提条件である。これはどういうことだろうか? このような状況下では、一部軍閥武装集団のクーデター的決起による権力奪取は極めて難しく、支配者に対してある程度有意味な抵抗を提示するためにも、広範な諸勢力の連携が必要になる。また、こうした連携の結果なされた権力奪取は、一部の集団によるその成果の独占という形では、権力奪取への参加者を納得させることはできず、社会の中の多元的な諸集団をそれなりに納得させる包括的な制度セットの形成によってしか、妥協は成り立たないだろう、とも予想される。
 ただしこうした集権的権力の確立した状況下では、たとえ広範な社会的諸勢力の連携があっても、統治権力の圧倒的な強さ――とりわけ暴力の独占によって、抵抗と変革自体が極めて困難となるという要因も考慮せねばならない。この点を念頭に置きAcemogluらは、古典的な近代化理論とは異なり、経済成長が民主化をもたらす、という楽観にはくみしない。
 乱暴に言うならば、集権的な権力の確立(略奪的ではあっても安定した政治制度)が、経済成長を少なくとも短期的には可能とするが、ただ必ずそうなるというわけではない。その上で、そうした短期的・一時的な成長の下である程度の実力(ただし暴力行使の能力を除く)を蓄積した社会的諸勢力が広範に連携すれば、革命≒包括的な制度セットの確立に成功する可能性が、わずかながら存在する、ということになるだろう。だから、包括的制度セットの確立においては、どちらかと言えば政治的変革の方が論理的には先行しなければならない、と言えようが、それが可能となるための条件は極めて厳しい。


 少し角度を変えてみてみよう。Acemogluらの理論構想は政治的・経済的双方の「制度Institution」を重視するものであり、そう考えるならば「政治制度と経済制度のどちらが先行するか/重要か」よりも、「制度か、資本財か、人材か、知識か、文化か、あるいは自然環境か」といった問いかけの方が、彼らの議論の評価に際してはふさわしいことになるかもしれない。実際彼らの理論は後者の問いの地平に置いた時には、いわば「制度基底主義」とでもいうべきものとなる。非常に大まかに言えば、彼らの考えるところでは、良き制度、この場合には包括的制度は経済成長にとってのほぼ必要条件である。自然環境上の好条件が欠けていても、持続的経済成長は可能であるのに対して、良き制度が欠けている場合には、持続的成長は不可能である。制度がそろっていても、資本や労働力、それらを活用する知識がなければ成長はもちろんできないが、十分な資本や労働の供給があっても、また人々にそれを活用するに足る知識や能力があっても、制度的枠組みが整備されていなければ成長はできない。更に先述の通り、包括的制度が欠けているところでは、創造的破壊が抑圧されてしまう。その意味で良き制度、具体的には、万人の財産権の安定、取引の安全を保障する法制度と、それを実現しかつ保持するにたる政治機構が必要となる。ここで非常におおざっぱに、資本財、人材、知識、自然環境を一括して、(占有権、所有権、様々な債権等々すべてを含めた)財産権の対象となりうる対象をあえて「資源」と呼ぶならば、Acemogluらは「制度か、文化か、あるいは資源か」という問いを立てたうえで、「成長にとっては制度がもっとも基底的なファクターである」と答えていることになる。


 ただここで注意すべきは、Acemogluらの「制度」概念が基本的には経済学、合理的選択理論、ゲーム理論の枠組みの下で理解されている――ダイナミックゲームのナッシュ均衡として、定式化されているということである。つまりそれは、この文脈における社会学的な「文化」概念(その典型がWeberの「プロテスタンティズムの倫理」「世界宗教の経済倫理」)のような、特定のタイプの主体の行動様式やその独自の価値観(経済学的に言えば効用関数の形状で定式化されるべき?)ではない。そこでは人々、経済主体の価値観や欲求の対象の多様性自体は否定されていないが、各主体は自分なりの価値を追求するにあたって合理的に思惟し行為する、という意味においては同質な存在として想定されている。ここでの制度とは、そのような合理的な主体たちが、それぞれの環境の中で相互行為する中で到達するある種の定常的なバランスである。制度の形成と持続は、それに関与する人々の(意図的であれ無意識的であれ)合理的選択の結果である。それゆえに、制度変化の可能性は、困難ではあってもゼロではない、とされているのである。

関連文献

Economic Origins of Dictatorship and Democracy

Economic Origins of Dictatorship and Democracy

Introduction To Modern Economic Growth

Introduction To Modern Economic Growth