井上典之「国家緊急権」(『岩波講座憲法6』所収)について

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070523/p1
 どうにも気になって、再読してみたのだがやはりこれは……。

 「国家緊急権が想定する危機ないし緊急事態が、戦争から内乱、自然災害、さらに経済恐慌までを含むきわめて包括的な概念であること」は問題となり、これらは、アブノーマルな社会状態をもたらすという一点で共通性を有するが、それを理由に一括して緊急事態とみなすのは、過度の(したがって恣意的な)抽象化といわなければなら」ず、「少なくとも、社会現象と自然現象とは区別しなければならない」(村田尚紀「立憲主義と国家緊急権」『憲法問題』14号、2003年、114頁)との指摘は国家緊急権を論じる際の「緊急事態」のとらえ方についてのひとつの問題を提起する。そして、「緊急事態は、元来、予め予測しがたいところに、その本質があ」り、「その予測不可能性は、現代の危機の特質に相応して、いよいよ深まるばかり」であって、「そのような状況のなかで、そもそも、あらゆる緊急事態を予め網羅的に類型化し、精密に限定し、そこでとられるべき緊急措置を――恰も平常時の国家行為の如く――構成要件的に厳密に規律し尽」すことは不可能であり、それだけでなく、厳格な規律によって「緊急事態に有効に対処しようとすれば、いきおい、その発生の予防ならびに対処の準備段階に深く立ち入らざる」をえず、それは「平常時における緊急事態法制の、平常の憲法秩序への止めどない侵入の可能性」を生み、「平常事態」と「緊急事態」の厳格な区別という緊急事態憲法の拠って立つ前提そのものに矛盾し、守るべき平常時の憲法をみずから蝕むことになる」(新正幸「緊急権と抵抗権」、樋口陽一編『講座憲法学1』、日本評論社、1995年、222-223頁)とされる。そうであるならば、緊急事態の厳密な類型化の困難性を承認してそれを抽象化することは、国家緊急権それ自体の正当性を付与しうる憲法保障としての機能そのものをないがしろにする原因を惹起することになる。
(196-197頁)

 何だか意味が通らないのですが。
 原著に当たってみたのだが、まず、引用されている村田論文は、国家緊急権肯定論における、「緊急事態」概念の抽象性の危険を指摘しているのに対して、同じく引用されている(村田論文でも批判されている)新論文は、「緊急事態の厳密な類型化の困難性を承認してそれを抽象化」することの立憲主義的な意義を肯定している。だとすればここで、新論文の主張を「そうであるならば」との接続詞でうけて、そのように国家緊急権を抽象化することは「国家緊急権それ自体の正当性を付与しうる憲法保障としての機能そのものをないがしろにする原因を惹起することになる」との結論にもっていくことは筋が通らない。新論文はあくまで、抽象化と包括化を伴いながら国家緊急権を明示的に肯定することこそが、国家緊急権に「憲法保障としての機能」を与える、としているはずだ。
 意味が通るようにするには、まず先に新論文の緊急権肯定論の紹介をして、それに対して村田論文の抽象化批判にふれ、その上で、新論文の主張する抽象化は「国家緊急権それ自体の正当性を付与しうる憲法保障としての機能そのものをないがしろにする原因を惹起することになる」と落ちをつけるべきではないか。