「公共政策論」講義メモ

 まあこの辺は『「公共性」論』の焼き直しですが。
=======================

 ハーバーマス自身の議論をストレートに受け止めるならば、「公共性の構造転換」は非常にありふれた議論であり、マルクス主義社会科学の土俵においてはそれは「自由主義から帝国主義へ」の展開であるし、政治思想史的な言葉づかいを用いるならば「議論する公衆の没落、消費する大衆の台頭」ということになる。すなわち、自由な市場はその中から独占的大企業が発展することによって自壊し、資本主義経済はある意味で重商主義的な、政府による介入と統制に支えられた仕組みに先祖返りする。開かれた市民社会は、閉鎖的な団体的秩序に回帰していく。(「再封建化」という表現もある。)
 もちろんそれを支える政治体制は相当程度民主化されており、かつての重商主義体制を支えた絶対王政とは違うが、この民主政治においても市民社会的な開放性は失われていく。政治の主役は議論する公衆から、それ自体巨大な官僚機構であるところの組織政党に移行していき、市民は主体的に政治参加する公衆というより、政党に動員されるか、あるいはあたかも消費者が商品を選ぶように政党の政策メニューを選ぶ受動的な大衆になる。すなわち、自由で開かれたコミュニケーション空間としての市民的公共圏は、コミュニケーションの場というよりも、ただ単に情報が流通し、人々はただそこで情報を発信したり受信したりするだけで、「コミュニケーション」を行わない、ある種の「自然状態」となっていく。
 繰り返しになるが、このような議論自体は決してオリジナルなものではない。しかしそれは広く受け入れられたものであり、真実を言い当てていると考えられていた。
 だがそこにゆがみや倒錯はなかったのだろうか? 


 まず第一に、既に示唆したとおり「19世紀には自由な市場と自由民主主義が定着していたが、それが世紀転換期に独占資本主義と大衆民主主義に堕落した」というストーリーは誤っている。実際よく見れば、そんなことを素朴に言っている論者も案外と少ない。実態としてみれば、19世紀半ばに起きたことはせいぜい「自由民主主義の理念の確立」であってその(先駆的にではあれ)実現ではない。「実現」というならそれは時代的にはむしろ「独占資本主義の確立」の方とシンクロしている。
 そして第二に、ミルの段階における近代的市民社会ハーバーマス風に言えば「市民的公共圏」の理念的な成熟形態というのはある種不安定なダブルイメージであり、それは狭い意味での「市民的公共圏」、政治的・社会(社交?)的コミュニケーション空間と、既に資本主義的となった市場経済との二重構造であった。ただそのいずれも「個体」ではなく種類物、あるいは開かれた空間としての性質を強く帯びていたという点において共通しており、それゆえにいずれも「市民社会」であったというわけである。「公共性の構造転換」とはこの個体ならぬ、境界を持たぬ延長、ないしは開かれた空間としての市民社会が、先祖返り的にヒエラルキカルな団体秩序へと変容する、という過程として理解される。
 しかしながらこの狭義の「市民的公共圏」と市場経済の構造は、共通するところもあればひどく異質なところもある。だとすれば、その二つの「構造転換」もまたずいぶんと異なったものであるはずだ、と考えるべきではないだろうか。


 ここで重要となるのは、やはりスミスの読み直しである。
 ある意味でスミスは、今日的な意味でのcivilという言葉に込められた感覚、すなわち、politicalともsocialとも区別された意味での、公的ルールを守りつつ私を生きるという感覚を先駆的に表現した論者である。ヘーゲルはその感覚を相当程度理解したが、それだけでは世の中は回っていかないと考えた。もちろんスミスとて厳密に言えばそうなのだが、ヘーゲルはより悲観的で、市場における自由な競争が引き起こす貧富の格差は社会秩序の維持にとって危険であり、政策的対応が必要である、と考えた。更にそうした政策的対応を担う為政者をいかにして選抜育成するか、についても考察を展開した。この点ではミルも同様である。(ヘーゲルはミルよりも官僚機構を重視し、かつ議会制構想についても身分制・職能代表制的な発想を色濃く残していた。今日的な議会制により近いのはミルの方である。)ちなみにマルクスが革命論者となったのは、市場経済における格差は既存の国家の枠組みでは処理しきれない、と考えたからである。
 そのようなヘーゲル、ミル(そしてマルクス)とは異なり、スミスは市民社会を外から支える政策主体のありよう、そしてそうした主体を形成する狭い意味での「政治」に対してノンシャランであった。あたかも為政者が何者であっても、どのようなメカニズムで政策が決定されても、正しい政策さえ実施されればよい、と考えているかのようである。もちろんスミスにおける「正しい政策」とは、「自由放任」ではないにせよ、「政策主体自身の主観的な欲望に由来する目標を実施すること」ではなく、「政策対象たる(国家からは区別されたものとしての)市民社会の固有の自律的なメカニズムを正しく貫徹させること」であった。


 「公共性の構造転換」論はマルクス主義における帝国主義論・国家独占資本主義論や、社会学社会心理学における大衆社会論のカウンターパートであり、「自由で主体的な議論する公衆が形作る、アソシエーションとしての市民社会」から「受動的な大衆が独占的大企業や組織政党、国家にコントロールされる管理社会」への転換という気配が濃厚である。しかしながら実際には、意地悪く見るならば既にアダム・スミスの経済自由主義と消極国家論において、管理社会論的なシニシズムの前駆形態が見られなくはない。
 まず第一に、スミスにおいて、更に彼のスピリットを一面的にかもしれないが正しく継いだ後の主流派経済学とその政策思想においては、政治は正面からは問題とされることが少ない。重要なことは正しい政策、正しい法制度が確立され実行されることであって、その正しい政策をだれがどのようにして実現するか、という政体の問題、狭い意味での、あるいは大文字の「政治」は主題化されない。
 そして政治や制度の「正しさ」、適切さの尺度となるのは「公共の利益」ではあっても「公共意志」、民意ではない。それどころかいかなる主権者、為政者の意志(民主政においてはまさにそれが「民意」であるわけだが)でもない。主観的な意志と客観的な利益は区別され、そしてその利益を実現する仕組みも基本的には自由な市場というメカニズムを中心とし、政治はそれを補助するのみである。
 更にスミスの考える市場経済とはどのようなものかと考えてみれば、それはある意味で「政治」の代替物であり、政治の負担から人々を解放するものであるといってもよい。市場がうまくいっている限り、人々は、万人に共通の基本的なルールを守ってさえいれば好きなことができる。好きなものを作り、好きな相手と取引ができる。利益も見込めないのに、嫌な相手と無理矢理取引する必要はない。他のよりましな相手を探しに行けばいいだけのことだ。すなわちそこでは、人々は孤立してはおらず、他人との社会的交流の中で生きてはいるが、深刻な利害対立や葛藤、それを克服するための討論と説得を回避することができるのである。嫌なことがあれば立ち去ればよいだけのことだ。
 ヘーゲルやミルは、スミスのようには考えなかった。まず第一に、スミスが言うほどには市場経済はうまくはたらかないかもしれない、という危惧を彼らは捨てなかった。そして第二に、そうした市場の欠陥を補うため、またそうした欠陥を除いてもなお、市場がはたらくために必要なインフラストラクチャーを支えるために必要な政策を策定し実施する「政治」という営みをだれがいかにして担うのか、という問題を真摯に受け止めた。何となれば、彼らにとって為政者とは、市民社会の外側からやってくる他者ではなく、他ならぬ市民社会の出身者と考えねばならないからだ。(この真逆の存在であることが明示されているルソーの「立法者」のイメージは非常に興味深い。)ちなみにマルクスは、資本主義社会はこの難問――市場経済の作用によって格差が深刻となった社会を政治的に統合すること――をクリアできない、と考えるがゆえに革命論者となったのである。


 通常、19世紀末のいわゆる独占資本主義の展開、帝国主義化はスミス的な経済自由主義の破綻を示すものと受け止められ、20世紀は社会主義と修正資本主義(帝国主義、国家独占資本主義)の時代である、と解されてきた。それゆえに20世紀末以降のいわゆる「新自由主義」の台頭を一種の反動、過去への回帰として解釈するという誘惑が非常に強力であった。しかしながら「新自由主義」は「公共性の再転換」「市民的公共性の復権」とは決して受け止められることはなかった。これは考えてみれば興味深いことである。
 どちらかというと反時代的な思想であった「新自由主義」の台頭は、70年代の石油ショック以降の財政危機、長期不況に伴う「福祉国家の危機」をきっかけとするものである。この状況を前にハーバーマスもまた、弟子のクラウス・オッフェらに学びつつ「後期資本主義における正統性の危機」について論じていた。すなわち「市民的公共性」を窒息させた管理社会としての後期資本主義の福祉国家体制を、暗礁に乗り上げたものとみなしていた。しかしその彼にとっても「新自由主義」という形でその危機を乗り切ろうという運動が支配的な時代精神となることまでは予想がつかなったであろうし、それを「市民的公共性の復権」とみなすようなことはしなかった。「福祉国家の危機」と「新自由主義」は、「市民的公共性の衰退」の過程に歯止めをかけたり逆転させたりするものではない、とハーバーマスは考えたのであろう。その判断自体は誤りではない、とわれわれも考える。しかしそうであるなら、「市民的公共性の衰退」の主動因とは何だということになるのだろうか?

 
 ハーバーマスの当初の「公共性の構造転換」論、ひいては古典的な帝国主義論や大衆社会論の理解に従うならば、「市民的公共性の衰退」の主動因はテクノクラシー化、少数のエリートによる集権的支配の進行ということになるのだろう。しかし我々の理解ではそうではない。エリートによる集権的支配の進行という事実があろうがなかろうが、人々の生活態度の全般的受動化、政治的主体性の衰退は基本的に進行し続けた、ということではないだろうか。ゼロサム的に、エリートへの権力集中と、一般民衆の受動化が並行した、というのではない。エリートによる意図的なコントロール・動員であろうが、あるいは市場の競争圧力だろうが、人々が社会的な外力を、政治的な、コミュニカティブなはたらきかけによって変更可能なものとしてではなく、あたかも自然な所与として受け止めるようになっていったからではないだろうか。