復習

 ハンナ・アレント的、あるいは藤田省三的な意味での「全体主義」概念を軸として、自分のこれまでの規範理論的な作業を振り返ると、以下のようにまとめられる。
 『リベラリズムの存在証明』においては、非常に強い意味でカント的な――「独我論者同士の相互承認と連帯」としてのリベラリズムは、アレント的な意味での全体主義に抗しうるか、と問いかけたうえで、否定的な解答を出さざるを得なかった。すなわち、いったん成立した全体主義体制を、その内側から突き崩すような力を、リベラリズムという社会編成原理は持ちえない、と。
 それに対して約10年後の『「公共性」論』では、問いのレベルと方向がずらされた。相変わらず、アレント的な意味での全体主義に対して、リベラリズムは実践の原理としては無力である。しかしここでは、まさにそのことをもってして、全体主義は否定されるべき原理であることが明確とされる。逆に言えば『存在証明』では、「全体主義を克服できるか」という問いかけはなされていたが、「そもそも全体主義は否定・克服すべき対象か」なる問いは真剣に問われなかった。『「公共性」論』においては、功利主義の理路を参考にして、「よき全体主義」なる社会編成原理のありうることが肯定され、それを原理的に否定するという方向が目指された。
 アレント的な全体主義は、その極限においてはロバート・ノージックの「経験機械」を帰結する。この「経験機械」はしかし原理的に悪しきものとは言えない。『「公共性」論』においては、ヒラリー・パトナムの「槽の中の脳」を「経験機械」と同質のものと見なしたうえで、それが人から世界を剥奪する(アレントはもちろん、後期マルティン・ハイデガー形而上学の根本問題』における言葉づかいを念頭に置いている)がゆえに、いったんそのうちに囚われたならば、人はただ単にその善悪をといえないのみならず、「自分は果たしてその中に囚われているのかどうか?」という懐疑さえ適切に行えなくなるがゆえに、拒絶されるべき仕組みなのである。
 全体主義は原理的に可能であり、完璧にうまくいった全体主義からは脱出不能である。それ故にわれわれは、全体主義を行うべきではない――大体このような考え方が、『「公共性」論』では提示された。しかしそこで「行うべきではない」という判断はどのような立場から下されるのか? 
 『存在証明』から『「公共性」論』にかけてリベラリズム観は若干のシフトを経ている。前著ではそれほど突き詰められていなかった「政治的リベラリズム」と「社会経済的リベラリズム」の種差が、新著ではより強く意識された。互いの信念をかけて他者と討論し合い、公共世界の枠組み自体の改変、構築にコミットするアクティブな政治的集団自治・自己統治主体の行為指針たる「政治的リベラリズム」あるいは井上達夫流にいう「逞しきリベラリズム」はユルゲン・ハーバーマスが「市民的公共性」と呼ぶものとオーバーラップするが、「世の中の仕組み」をそれとして受け入れて、他者との間にも波風を立てない、受動的な主体の処世訓、そしてそれと対になる、そうした主体≒私民を外側から操作する統治の論理たる「社会経済的リベラリズム」、あるいは「ひ弱なリベラリズム」とは区別された。そして前者を欠いた後者の果てに、(少なくとも「よき」)全体主義の可能性が開かれる、とされた。
 すなわち、「ひ弱なリベラリズム」は全体主義に実践的に抵抗できず、「よき全体主義」であればむしろ協力関係に入りうる立場であるし、規範的にそれを否定することもできない。「逞しきリベラリズム」であれば、「他のようでもありうる可能性」から人々を遮断する全体主義は、たとえ「よき」それであろうとも批判しうる。しかしいったん確立した全体主義を内側から突き崩す運動は、それによっても引き起こせない。


 ところでここでいう「逞しきリベラリズム」とはなんなのだろうか? 
 それは既に一種の徳倫理として、もはやほとんど共同体主義、共和主義の説くところと区別がつかない。あえて区別を言うのであれば、そこにおいては人は有徳の主体たることを強制されない、ということだ。古典的な共和主義においては、人を有徳の主体へと規律訓練するという課題は家庭教育や公教育の課題として正面から肯定されるが、リベラリズムにおいてはその正当化がより深刻な課題となる。そこにおいては、徳の低い人もまた権利主体として、それどころか人格の尊厳において、「平等」な承認を与えられるからだ。
 古典古代的共和主義の問題設定においては、徳の低い人々は公共圏から締め出され、有徳の士の監護下におかれる(すなわち、私的領域に封じ込まれる)、で問題は片付く(アリストテレスの奴隷論を想起されたい)。しかしリベラリズムの立場を徹底するならば、徳の低い「賤民」もまた公共圏から締め出されず、管理もされなければ保護もされない、ということになる。こうした賤民は、その能力もないのに公事に首を突っ込むこともあるだろうし、反対に、公事へのコミットを求められながらもそれを拒絶することもあるだろう。しかしリベラリズムの立場からは、そのどちらも――公事への不適切なコミットメントも、その反対の公事への無関心も――原理的には否定できない。
 「ひ弱なリベラリズム」のレベルでいうならば、民間市民社会には、私民としての市民の規律訓練メカニズムが内在していて、安定した再生産が期待できる。人々はまさに市民社会の作動そのものを通じて――法と秩序の保護下におかれた市場経済の下でビジネスに励むことによって、幸福な生へと導かれることを通じて、市民社会のルールに従うよう規律訓練される。そのような自然な規律訓練、陶冶の機構が、「逞しきリベラリズム」においては期待できない。少なくとも一部の人々は政治的に積極的な主体たることを目指すかどうか、そうした人々が適切に鍛えられ、資質を身に着けるかどうか、これは結果の不確実な賭けに他ならない。それは「未完のプロジェクト」どころではない。
(あるいは我々は古典的共和主義についても誤解をしているのかもしれない。古代人は法人としての国家という考え方をとらなかった。ギリシアのポリスも、ローマ法における組合も、法人ではなかった。人に超越し人に何事かを強制する社会的な力を「法人」として実体化することを彼らは避けた。ひょっとしたら古代人にとっても、政治は賭けに他ならなかったのかもしれない。)
(続く?)

リベラリズムの存在証明

リベラリズムの存在証明

「公共性」論

「公共性」論