東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

フーコーの「リベラリズム

 『安全・領土・自由』に続く『生政治の誕生』の主題はリベラリズムであるが、それはあくまでも「統治」として捉えられている。すなわちフーコーに従うならばリベラリズムとは「政治」であるよりは「政策」として理解されるべきなのである。
 しかしもちろん近世絶対王政の「統治」とリベラリズムの「統治」との間にはある転換が見出されている。

 中世を通じて、王の権力は結局、何を出発点として増大したのでしょうか。もちろんそれは、軍事力を出発点として増大しました。それはまた、司法制度を出発点とすることによっても増大しました。軍事システムによって二重化された司法国家の要石、司法システムの要石として、王は少しずつ、封建権力の複雑な作用を制限し、縮減したのでした。司法の実践が、中世全体を通じて王の権力を増大させたということです。ところで、十六世紀そしてとりわけ十七世紀初頭以来、新たな統治の合理性が発展するとき、法権利は、今度は逆に、内政国家のうちに具体化する国家理性の際限なき拡張を何らかのやり方で制限しようとするあらゆる人々にとっての支えとして役立つことになります。法権利の理論と司法制度とが、今度は、王の権力を増大させるものとしてではなく、それを減じるものとして役立つことになるのです。
(『生政治』11頁)

 内政国家として表明され明示された国家理性、内政国家のうちに具現した国家理性が、たしかに無制限の目標を持つものであるとしても、十六世紀および十七世紀には、国家理性を制限しようとする試みが絶えずなされていた(中略)、そして国家理性をそのように制限する原理、その理性は、法的理性の側に見出される(中略)。しかし、おわかりいただけるとおり、これは外的制限です。
(『生政治』13頁)

 ほぼ十八世紀の半ばに(中略)、近代的統治理性と呼びうるようなものを一般的なやり方で特徴付けることになるように思われる重要な変容がそこで起こった(中略)。一言で言うならばそれは、統治術の制限が、もはや十七世紀における法権利のような統治術にとって外在的な原理によってなされるのではなく、それに内在的な原理によってなされることになる、という変化です。
(『生政治』13−14頁)

 第一に、そうした調整は、事実上の調整、事実上の制限となるでしょう。事実上の、とはつまり、それが法権利にもとづく制限ではないということです。たとえ法権利がいずれはそれを侵すべからざる規則というかたちで登録しなければならなくなるとしても。(中略)統治実践の事実上の制限があるということ、これは、そうした制限を見誤るような統治が不法ないし不当な統治であるということではなく、それがただ単に下手な統治、適応できていない統治、なすべきことをしない統治であるということを意味します。
(『生政治』14頁)

 統治に内在的な制限、これは第二に、それが事実上のものでありながらも一般的な制限であることを意味します。(中略)つまり、あらゆる状況を通じて常に有効な原理によって比較的一様な道筋に従ってなされるような制限が、確かにあるということです。
(『生政治』14頁)

 第三に、内的制限は次のことを意味します。(中略)そうした制限の原理は、(中略)統治の目標の側に探し求められなければなりません。そしてそうした制限は、そのとき、その目標に到達するためののひとつの手段、そしておそらくはそのための根本的な手段として自らを提示することになります。(中略)統治理性がそうした限界を尊重しなければならないのは、統治理性がそれを、その目標に応じて、その目標に到達するための最良の手段として自ら計算することができる、その限りにおいてのことなのです。
(『生政治』15頁)

 第四に、統治実践そのものに応じて行われるこの事実上の一般制限(中略)によって統治行動の限界がしるしづけられるということですが、しかしこの限界は、統治される主体、個人としての主体のうちに設けられるわけではありません。(中略)統治実践の領域そのものにおいて分割が打ち立てられる、というよりもむしろ、統治実践そのものにおいてなされうる操作となされえない操作とのあいだに分割が打ち立てられます。(中略)したがって問題は、根本的法権利はどこにあるのか、そしてその根本的法権利は可能な統治性の領域と根本的自由の領域とをどのようにして分割するのか、と問うことではありません。そうではなくて、分割の線は、なすべきこと[アジェンダ]となすべからざること[ノン・アジェンダ]とのあいだに引かれることになります。(『生政治』15−16頁)

 統治理性の自己制限を可能にするその知的道具、計算のタイプ、合理性の形式、(中略)それはもちろん、政治経済学です。
(『生政治』17頁)

 第一に、政治経済学は、十六世紀および十七世紀の法思想とは異なり、国家理性の外部において発展したものではありません。政治経済学が発展したのは、少なくとも最初のうちは、国家理性に対抗してそれを制限するためではありません。逆に、政治経済学は、国家理性が統治術に対して定めた目標の枠組そのもののなかで形成されました。
(『生政治』18頁)

 第二に、政治経済学が国家理性とその政治的自律性とに対して外から異論を唱えようとするものではない、というのは、(中略)ヨーロッパの思考の歴史において存在した最初の経済学的思考による最初の政治的結論が、法学者たちが望んでいたものと全く逆の結論であるからです。それは、全面的な専制主義が必要であるという結論です。
(『生政治』18−19頁)

 政治経済学は、統治実践を、その起源の側においてではなく、その諸効果の側において考察します。
(『生政治』19頁)

 以上のフーコーのデリケートな講述は、市民革命前後に一気に転換が起きたのではなく、近世絶対王政の統治理性の中で高まる緊張が、新たな論理への移行を引き起こしたことを示唆しているが、それはどのような緊張なのだろうか? 
 近世における統治理性――それはもちろん、マイネッケ言うところの「国家理性」と別物ではないのだが――の洗練を、フーコーは単なる暴走的肥大化としては捉えておらず、同時にその制限の論理のあったことをも念頭においている。マキアヴェリといわゆるマキアヴェリズムは、近世絶対王政的統治理性の具現者ともいうべき他ならぬフリードリヒⅡ世によって、厳しく批判されたことは言うまでもない。そしてフリードリヒⅡ世はよく知られているごとく、社会契約論を受容して君主を「国家第一の僕」と規定した。すなわちここで統治は、制限そしてあるいは統制の対象として理解されている。
 わかりやすいのは社会契約論が体現する、人民の合意による統制である。それはフーコーによれば中世、封建制的な法による王権の制限の系譜に連なる論理でもある。すなわちそれは、統治の外在的な制限の論理である。それに対して近世末期においてフーコーは、統治の論理の自己抑制の可能性を見出している。そして結論を先取りするならば、フーコーアダム・スミス以降のリベラリズムに見出すのは、自己制限の論理の探究の果てに統治理性が新たな「外部」の――自らを根拠付けまた制限する外なるものの発見ないしは創出である。その「外部」をフーコーは「市民社会」と呼ぶが、これは別に「市場経済」とか「資本主義」と呼び換えても構わないであろう。絶対王政の下での統治理性は、「統治の目標」をその自己制限の根拠としていく。そして「統治の目標」が「統治の対象」と重なって一体化したのが「市民社会」なのである。
 『生政治』最終講でのフーコーの講述はいささか混乱気味であるが、その一回前の講義で彼は、それまで共に自由主義的論者として一括して扱ってきた重農主義者とアダム・スミスとの間の違いを(経済学史研究の伝統からすればむしろ本卦返りだが)強調している。

 重農主義者たちは、(中略)商品が最も容易に最もよい価格において買手が見いだされる場所へと向かうようにするのは利害関心のメカニズムであるということ、統治や国家や主権者はそのような利害関心のメカニズムに対して介入するようなことが絶対にあってはならないということを示しました。重農主義は、したがって、主権者の権力を経済に対して行使するためのそのような行政的規制全体への、厳格な批判でした。しかし、重農主義者たちは、ただちに次のように付け加えました。すなわち、経済主体を自由にしておかなければならないとはいえ、しかし、第一に、一つの国の領土全体が結局は主権者の所有地であると考えなければならない、あるいは、いずれにしても主権者はその国のすべての土地の共同所有者でありしたがって共同生産者であると考えなければならない、と。(中略)
 第二に、(中略)主権者が経済主体を自由なままにしておくのは、主権者が、〈経済表〉のおかげで、何が起こるかということ、そしてそれがどのように起こるはずであるかということを知っているからです。(中略)
 第三に、よい統治は(中略)それがどのように起こるのか、それがなぜ起こるのか、そして利益を最大化するために何をなすべきかということを、さまざまに異なる経済主体、臣民に対して説明しなければならなくなります。(中略)重農主義者たちにおいて、自由放任の原則、経済主体に必要な自由の原則は、主権者の存在と相容れるものとなります。そしてこの主権者は、明証性の法、つまり経済主体と共有する見事に打ち立てられ見事に構築された知の法をその唯一の法とすることによって、いっそう専制的となり、伝統や習慣や規則や基本法による拘束をいっそう逃れることになるような主権者なのです。(中略)
 アダム・スミスの見えざる手は、これとまったく逆です。それは、完全な経済的自由と絶対的専制主義とからなる逆説的な考えに対する批判です。重農主義者たちがそうした逆説的な考えを経済的明証性の理論のなかで主張しようとしていたのに対し、見えざる手が原理として立てるのは、逆に、経済的明証性がありえない以上、重農主義的な意味における主権者はありえず、重農主義的な意味における専制主義はありえないということです。したがって、おわかりいただけるとおり、経済学は、その始まりからすでに――もしアダム・スミスの理論と自由主義理論を政治経済学の始まりと呼ぶのであれば――統治の合理性のようなものにとっての行いの指針ないし完全なプログラムであることは決してありませんでした。政治経済学は確かに、一つの学、一つのタイプの知、統治を行う人々が考慮に入れるべき認識の一つの様態です。しかし、経済学は統治の学ではありえないし、統治は経済学を、自らの原理、法、行いの規則、内的合理性とすることはできません。経済学は、統治術に対して側面的な学です。経済学によって統治しなければならず、経済学者たちのすぐ傍で統治しなければならず、経済学者たちに耳を傾けながら統治しなければならないとはいえ、しかし、経済学が統治の合理性そのものとなるなどということは、あってはならないこと、問題外のこと、不可能なことなのです。
(『生政治』350-352頁)

 ではスミスの経済学以降の自由主義において、統治とは何であるのか?