東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

 実際にはこの日しゃべったことは拙著『「公共性」論』の要約だったりするわけだが。

「公共性」論

「公共性」論


*「ネオリベラリズム」とは何か? 


 フーコーは『生政治』において「ネオリベラリズムとは(マルクス主義同様)多様で多義的な立場である」と強調している。おそらくこのことは、わかっている人には自明だったのであり、ただそれがネオリベラリズム・ブームの中で見失われてしまったからに他ならない。


 ウォルター・リップマン・シンポジウムやモンペルラン・シンポジウム、そしてモンペルラン協会といった、実体的な人脈によってそれなりの同一性はそこに保たれているものの、思想的に見れば「ネオリベラリズム」とは異質な立場、異質な思想の寄り合い所帯である。


 最低でも我々はそこに、アメリカ合衆国において開花したオーストリア学派シカゴ学派的な、いわゆる「市場原理主義」的、リバタリアン的なものと、旧西ドイツ、フライブルク学派のオルドリベラリスムスの「社会的市場経済」的なものとの二つのタイプを見出さねばならない。(おそらくはそれ以上。権丈康男編『新自由主義と戦後資本主義』日本経済評論社、によればフランス・タイプもいれて三つ。フーコーもまた、自国のことでもあり、戦後フランスについて立ち入って検討している。)この二つのタイプを同じ「ネオリベラリズム」という名で呼ぶべき根拠を人脈以外に見つけることは意外と難しい。
 「マルクス共産主義ファシズムの両者を拒絶してリベラリズムを守る」というだけでは、それと福祉国家支持の立場――ケインジアンやフェビアン、社会民主主義等――を区別するには不十分である。ハイエクらの親リバタリアン的な流れにおいては、福祉国家思想もまた社会主義全体主義への「滑りやすい坂」の上にあるものとして容易に拒絶されうるだろうが、大陸ヨーロッパにおいて支配的なオルドリベラリスムス的な流れは、ある種の社会民主主義――アングロサクソンにおいても19世紀末英国のニュー・リベラリズム、また合衆国の親民主党的ないわゆる「リベラリズム」――とほとんど見分けがつかない。あえて言えばオルドリベラリズムの場合には反ケインズ主義が見られなくもないが、反福祉国家とは言いがたい。
 たとえば「独占」の理解と評価をめぐって、(戦後)シカゴ学派ネオリベラリズムフライブルク学派的ネオリベラリスムスとは大きく食い違っている。シカゴ学派系の発想では、市場における独占はほとんどの場合国家による介入のせいであり、自由な市場における独占の自然発生はそうそうあることではなく、あったとしてもそれほど問題ではない。これに対してオルドリベラリスムスにおいては、独占は大いにありうる市場の機能不全であり、これを排除して理想的な競争状態を確保し、最適な資源配分を達成するために、政府介入は正当化される。このようなオルドリベラリスムスの発想は、むしろ合衆国の「リベラル」に近いようにも見える。


 しかしそれでもなおフーコーは、これらを一括して「ネオリベラリズム」と呼びうる根拠がある、と考えているようだ。

国家によって規定され、いわば国家による監視の下で維持された市場の自由を受け入れる代わりに――経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした。オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。
(『生政治の誕生』筑摩書房、143頁)

 どうやらフーコーは、「市場の自由」を「国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理」とみなしている、という一点においては、オルドリベラリスムスも(戦後)シカゴ学派も同断である、と考えているようだ。そしてまたこの点はフーコーによれば、ネオリベラリズムと古典的――アダム・スミス的なリベラリズムとを分かつ最大のポイントでもある。
 古典的リベラリズムとは、自律的な運動法則を持つ市場経済市民社会という対象を前に、闇雲な介入を控え、自己抑制する統治理性である。しかしそこでは市場の論理は統治の論理に成り代わってはいない。「市場の自由」は統治理性を律する原理にはなっていないのだ。オーストリア学派シカゴ学派のラインはこのいわば「市場原理」を具体的な「運動法則」として捉える傾きが強く、それに対してオルドリベラリスムスにおいては、現実にはなかなか貫徹し得ないが目指されるべき「命法」とみなしがちである、というところだろう。


 そしてフーコーは、誤解を怖れずに言えば新左翼新自由主義の間にある種の対応関係を見出す。フランクフルト学派フライブルク学派は、同じ問題にそれぞれに仕方で直面したのだ、と。それはドイツの文脈で言えばマックス・ウェーバー、ヴェルナー・ゾンバルトマルクス主義を受けて/対抗して立てた問題であり、言うなれば後期資本主義論である。後期資本主義、大衆消費社会批判はゾンバルトらの世代において既に先鞭がつけられている。ナチスもまたそのような時代思潮に棹差していたものであるのは間違いない。しかし新自由主義者たちは、ナチスもまた、批判対象であったはずの後期資本主義の共犯者だったことを見出す。社会主義全体主義福祉国家主義と後期資本主義は同一の地平に置かれ、国家主義反自由主義こそが後期資本主義と大衆消費社会の核心にある、とみなされているのだ、と。

マルクスは、一言で言うなら資本の矛盾した論理のようなものを定義し分析しようとしました。これに対し、マックス・ヴェーバーの問題、そしてマックス・ヴェーバーがドイツの社会学的考察、経済的考察、政治的考察のなかに同時に導入したもの、それは、資本の矛盾した論理の問題よりもむしろ、資本主義社会の非合理的合理性の問題です。(中略)そしておおざっぱに言うなら、フランクフルト学派フライブルク学派も、ホルクハイマーもオイケンも、この問題をとり上げ直したのだと言うことができます。ただし、二つの異なる向きへ、二つの異なる方向へと向かって。(中略)フランクフルト学派の問題は、経済的非合理性を解消するようなやり方で定義され形成されうるような新たな社会的合理性とはいかなるものでありうるのかを定義することでした。これに対し、資本主義の非合理的合理性の解読という、フライブルク学派にとっての問題でもあったこの問題を、オイケンやレプケのような人々は別のやり方で解決しようと試みることになります。すなわち、社会的合理性の新たな形式を再び見いだし、発明し、定義しようとするのではなく、資本主義の社会的非合理性の解消を可能にするような経済的合理性を定義したり、再定義したり、再発見しようとするということです。
(『生政治』130-1頁)

資本主義社会、ブルジョワ社会、功利主義社会、個人主義社会に関してナチスによってなされた分析については、それをゾンバルトに関係づけることができます。(中略)ブルジョワ的かつ資本主義的な経済および国家は、いったい何を産出したのだろうか。それらが産出したのは、一つの社会、即ちそこでは個々人がその自然的共同体から引き離されて大衆といういわば平板で匿名の一つの形態のなかで互いに結合されているような一つの社会である。(中略)ゾンバルトには、実は一九〇〇年代から既に、その分節化と骨格とがどのようなものであるのか定かでないような思考の決まり文句のうちの一つとなってしまった周知の批判が見られます。それはすなわち、大衆社会、一次元的人間の社会、権威主義社会、消費社会、スペクタクルの社会などに対する批判です。(中略)以上はまた、ナチスが自らのためにとり上げ直したことです。(中略)
 しかし、と新自由主義者たちは言います。よく見ると、ナチスは、その組織、その政党、その総統支配によっていったい何をやっているのだろうか。ナチスがやっているのは、実は、あの大衆社会、画一化し規格化するあの消費社会、記号とスペクタクルからなるあの社会を際立たせることに他ならない。(中略)これはなぜだろうか。なぜナチスは、自らが告発しようとしているものを継続することしかしないのだろうか。それはまさしく、それらすべての諸要素が、ゾンバルトそして彼の後にナチスが主張していたのとは異なり、ブルジョワ資本主義によってもたらされた効果ではないからだ。(中略)大衆という現象、画一化という現象、スペクタクルという現象、こうしたすべては、国家主義反自由主義に結びついているのであり、一つの商業経済に結びついているわけではないのだ、と。
(『生政治』139-40頁)


 新自由主義者たちのこうした後期資本主義理解をフランクフルト学派などの広義の新左翼の思想家たちはもちろん拒むだろう。しかし両者の間にどれほどの距離があるのか、という問題はそう一筋縄ではいかない。既に見たように、たとえばハーバーマスなども含めた後期資本主義論においては「社会の再封建化」が議論され、国家による意図的な介入、コントロールが後期資本主義を特徴づけるとされる。資本の権力と国家の権力の結託が、管理社会としての大衆消費社会をもたらしたのだ、とそこでは論じられる。それは本当に新自由主義とかけ離れた議論なのだろうか? 
 新左翼が「資本と国家の結託」を見出すところに、新自由主義は「国家による市場の歪曲」を見出す。なるほど新自由主義者は市場、資本の作用それ自体には悪や病理を見出さない。だがそれは本来マルクス主義もまたそう(あるべき)だったはずなのである。(悪の密輸入は結局避けがたかったとはいえ。)


 古典的自由主義と旧左翼(正統派マルクス主義)は、本来「悪者探し」を行わない。(もちろん実際にはなかなかそうは行かないのだが、理屈としてはそうあるべきなのだ。)それに対して新自由主義新左翼にとっては「悪者」が存在する。すなわち「国家」である。その極端な形態においては、国家権力、国家による統治を全面的に否定するアナーキズムに到達する。
 それはどのような悪か? 新左翼なら「疎外」と呼んだ、人間の内面にまで及ぶ権力の統制である、と考えることができよう。ただし新左翼にとってそれは国家と資本の合作であるのに対して、新自由主義にとっては基本的に国家による管理の所産である、ということになろうが。


 このように新自由主義新左翼との対応関係が明らかになったとして、そこから何がいえるのか、が問題となる。マルクス主義の社会変革のプログラムが失効した以上、後期資本主義の批判とそれへの対抗戦略としては、新自由主義のそれ以外に説得力があるものは見られない。あるいは新左翼もまた一種の復古的反動、古典的自由主義的資本主義へではなく、市場経済の発展以前の世界への回帰を志向するのであれば、それなりに一貫した対抗戦略を提出できたことになるが。
 しかしながら新自由主義者が、もし己の立場を反国家主義であり自然主義であると考えているならば、それは自己欺瞞的なイデオロギーだということになる。フーコーも指摘するとおり、新自由主義とは19世紀的な保守的自由主義同様、それ自体一種の統治理性であって、単なる反政治の自然主義ではない。そして自然主義ではない以上、それはしばしば新自由主義者たちがそう自認するのとは異なり、単なる保守的自由主義への回帰でもないというフーコーの指摘が考慮に値する。