東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

 そもそも学問としての、そして近代人の基礎教養としての西洋政治思想史にはれっきとした「本流」というものがあって、そこにはボダン、マキアヴェッリホッブズ、ロックといった名前が大きく刻み込まれていて、中心的なテーマはまずはいわゆる「宗教改革」以降の「絶対主義」とともにやってきた「主権国家」であり、その主旋律に対する最も重要な変奏として「自然状態」による「契約説」が絡む。そしてそれら全体を支配する通奏低音は結局のところ「法」である。――このようなイメージがある。
 それに対して、「人種」「民族」あるいは「階級」といった、何と言ったらよいのか、生身の人間たちの形成する社会的な集団の問題は、西洋政治思想史においてあくまで「傍流」としてのみ扱われてきたのではないか。また聞きであるが、生前の福田歓一は「政治思想史はヘーゲルで終わり、そのあとは現代政治学になる」との趣旨の発言をしていたそうで、実際彼の教科書『政治学史』もまさしくそのように構成されていた。あくまでも西洋政治思想史の「本流」は制度の人為的・意図的な構築にあり、自然発生的な集団性にはない、というわけだ。たしかに「西洋政治思想史」上の偉大な古典として読み継がれているテキストは、確かにその種のものに偏っている。19世紀には無視しがたく政治の前面に出てきた「民族」「階級」は、福田に言わせれば「歴史」ではなく「現代」に属しているわけだが、おそらくそれにとどまらない。この発想にのっとるなら、「民族」「階級」という問題系は、仮に西洋政治思想の「本流」を「主権」「契約」「法」周りにあるとみなすならば、基本的にはその本流に乗らない、乗りえない問題系であり、それらについてのテキストは政治思想上の「古典」とは位置づけられえないということになってしまうのではないか。


 『社会は防衛しなければならない』においてフーコーがひっくり返しているテキスト群は、まさにそのようなものである。それらは主として17、18世紀に属しており、今日はあまり顧みられないけれども、確実に19世紀以降の「民族」「階級」にまつわる議論を準備したものたちである。それは今日の目から見れば非常に不穏で、おそらく我々は今日それらをまともに――少なくともマキアヴェッリホッブズ、ロックを読むようには――読むことができない。にもかかわらず決してそれはひとごとではない。「民族」や「階級」といった集団を実体的な主体とみなす歴史観は、我々自身において血肉化している。だからこそその起源は正視にたえない――そんな印象を受ける。マルクス主義という思想、そして「社会学」という学問はまさにこの「本流」の外にあって、「民族」「階級」「人種」とともにあるわけである――ナチズムの教訓を経て、20世紀後半には「人種」と何とか手を切ったが。
 もちろんここで問題は、それこそ社会学内部的な区別にすぎない、「集団の存立根拠は遺伝や血縁にあるとされるのか、あるいは文化的なものとされるのか、あるいは社会経済的ポジションによるのか」ではない。そうではなく(18世紀以前には人種主義と民族主義の区別自体成り立つかどうか怪しい)、いかなる根拠に基づくのであれ、ある集団がそれ自体の意志があるものであるかのごとく扱えるというパースペクティブがここでの問題である。マルクス主義的な「階級」もまた、「階級意識」に目覚めた「対自的階級」となれば一個の意志を持った主体である。そのような集団的意思や集合的無意識を割り当てられた主体である点において、「階級」も、ナショナリズムの文脈でも「民族」も、また人種主義的な意味での「人種」も選ぶところはない。
 それに対して西洋政治思想史の「正統」を形作るのは、ことに中世以降においては、法的な構造物としての国家、近世以降においては「主権国家」とよばれるところのものである。それはもちろん必ずしも民主的なものではないが、基本的には自由人からなる構成体である。そして自由人を拘束しうるものは法だけである。(これに対して非自由人――女子どもや動産としての奴隷は、法によらずその主人たる自由人によって拘束され、支配されるが、そうした支配は「政治」の領分とはみなされなかった。)自由人からなる法的な構築物としての政治的共同体、国家こそが西洋政治思想史の「正統」であり、それが「人種」「民族」「国家」といった自然な集団の論理を――どの程度自覚的にはともかく――押さえ込んできた。フーコーの示唆を真に受けるならば、19世紀におけるナショナリズム、そして社会主義の展開は、こうした抑圧、押さえ込みの破綻と見ることができるのかもしれない。

 それでは、経済学という思考はどのような位置にあることになるのだろうか? 
 『安全・領土・人口』は内政police、Polizeiの学としての官房学、ポリツァイ学、政治経済学の対象を主として「人口」という言葉で捉えているが、それは『社会は防衛しなければならない』の描く「民族」「人種」あるいは「階級」とはややニュアンスが異なる。ハンナ・アレントの言葉づかいに従うならば、これらはいずれも「社会」であり、実際フーコーも『生政治』において「市民社会」なる言葉を用いているのだが、経済学的な意味での社会――「人口」あるいは「経済」と、(プロト)社会学的な意味での社会――「民族」「人種」「階級」――は違う、と考えるべきだろう。大雑把に言えば、「民族」「人種」「階級」はあたかもそれ自身の意思を持った主体であるかのように描かれるのに対して、「人口」の方は、ミクロ的には意思的な主体であるところの人々から構成されるにもかかわらず、マクロ的には意思を持たず、客観的な自然法則のようなものに従う対象として解釈される、という違いがある。後の古典派経済学以降の近代的な意味での「経済」もまた同様だが、こちらの方は「人口」よりも広い概念であり、人間以外の人工物、家畜に栽培植物、土地その他の資源も含む。
 この一連のコレージュ・ド・フランス講義とは別に、近世のポリスの学を扱ったフーコーの有名な講義に「全体的かつ個別的に」があるが、そこでフーコーは、ポリス的権力がマクロ的な全体社会とミクロ的な個人とを両方ターゲットにすることを強調している。これはそれだけではやや理解しづらい議論だが、以下のように考えることができよう。
 まずマクロ的にはポリスの対象は「人口」といったそれ自体は意思を持たない対象である。それに対してミクロ的な対象たる個人の方は意思を持つ主体であるはずだ。しかしポリスは個人に対して、先述の西洋政治思想の「正統」とはまた異なったアプローチをかけるのである。
 既に民主主義の準備段階といえる、法への服従の根拠を自発的な合意に求める社会契約論においてのみならず、民主政ではなく君主政、貴族政であれ、それが公的に告知される法に基づく国家を前提とした議論であれば、そこで国家は、あるいはその権力は、被支配者の合意――とはいかなくともその了解、理解、法の認識を経由して作動し、被支配者は進んではでなくとも、自覚して支配に従うことになる。
 近代的内政、ポリスにおいては事情は異なる。「人口」はそれ自体意思のある主体ではないから、それに対する国家のはたらきかけは、上述の意味での「正統」的な意味での「政治」ではありえない。ここで利いてくるのが「経済」economyの語源たる「家政」oeconomyなる概念である。
 既に見たとおり、アリストテレス以来の、西洋における伝統的な「政治」観とは、民主政ではなく貴族政や君主政においても、それはあくまでも自由人同士の間の関係として捉えられる、ということである。それに対して家政とは、自由人のその自由と自立の基盤であるところの家の内部の支配・経営のことであり、私的な領域において、自由人が非自由人を支配する術のことである。そしてマクロ的な「人口」への働きかけは、国家レベルでの家政として観念されるわけである。それは法を、つまりは支配対象の了解を経由しない。
 そしてフーコーによればこうした家政の論理は、人口というマクロレベルにおいてのみならず、ミクロレベルにおいても作動しているというわけだ。
 先の引用から明らかなとおり、この一連の講義でフーコーは「統治」governement, governmentという言葉をとても特殊な――とは言え全く独りよがりなわけではなく、それなりの歴史的根拠をもって――意味で用いている。すなわち、それはほとんどoeconomyと言い換え可能なのである。すなわち、それは国家経営――国家の家政でもあり、文字通りの家政――家の支配管理でもある。のみならずフーコーは教会における信徒の司牧や軍隊、学校などの組織、施設――ウェーバーならば「アンシュタルトAnstalt」と呼んだもの――の管理支配までをも「統治」の射程に入れていることに注意せねばならない。つまりそこでは、個人は自由人としてではなく、管理され支配され規律され、そしてケアされ保護される対象として位置づけられているのだ。かつてそうした個人を「統治」する主体は国家ではなく家長であり教会であり、その他私的な団体であったわけだが、いまや国家もまたそうした統治の主体の仲間入りをして、それどころか他の統治の主体のお株を奪うようになっていく、というわけである。ただそうした事情ゆえに、家政はポリスのモデルであるわけだ。

 あえて言えばフーコーの言う「統治」とは、今日的な意味での「政治politics」よりはむしろ「政策policy」である。現代政治学的な言葉遣いをするならば、「入力」ではなく「出力」にかかわる。更にいえば「出力」においても、はたきかけられる相手の了解を経由しない、あるいは必要とはしないタイプのはたらきかけである。対象がマクロな「人口」あるいは「経済」である場合には当然のことだが、ミクロ的な個人にはたらきかける場合にも、『監獄の誕生』の規律分析に明らかなように、それは同意や説得を通じての公的なはたらきかけではなく、しばしば強制を伴い、あるいは強制は介在しなくとも、意思よりは身体レベルに照準したはたらきかけを通じてなされる。