可能世界というアイディアの有用性

 吟味せずに適当に思いつきをメモします。誤りなどご教示いただけると幸いですが、ご面倒ならば放置しておいて下さい。恥をかくのはなれております。


 論理学とか計算科学、更にその技術的応用のレベルについては言うを待たないが、哲学的な意義について考えてみる。
 「反事実的条件法」についてのデイヴィッド・ルイスの研究以来、因果関係の理解に可能世界の概念が極めて有効であることが知られているわけだが、ということは自由意志とか、あるいは意味・情報の概念についても可能世界の概念が有意義であるはずだ。
 たとえば「情報」という概念、情報伝達作用とか、「制御」といった概念は、可能世界の概念なしには存在論的に有意味なものとはなりにくい。
 一義的に決定論的な世界においては、そもそも語の普通の意味での「因果関係」が意味を持たない。ある時点における世界全体の状態が、次の時点における世界状態全体の原因となっているのであり、その中から特定の部分を取り出してきて「原因−結果」関係を設定することに意味を見いだせなくなってしまう。可能世界の概念を持ちだして、「契機aの欠如においてのみ現実世界とことなる可能世界A」と現実世界を比較し、それぞれにおける時間的推移において、Aにおいては契機a’が生じず、現実世界においてはa’が生じると言えるのであれば、はじめて、世界全体の時間的切片全体同士の間にではなく、世界内の局所的な部分同士(この場合aとa’)の間に因果関係を想定することに意味がある。
 因果的に有意味な、いわば物理的現象としての「情報」についても同様である。物理的に有意味な情報は、それのあるなしによって、物理的な差異を世界の中にもたらさなければならない。
 デイヴィッド・ドイッチュは量子力学多世界解釈にコミットしつつ、情報・知識は物理的現象であると断言している。彼の推測では、ジャンクDNAの配列は、他の世界においては異なっているはずである。隣接する宇宙同士の間で、同じ配列になっている分子が遺伝子としての役割を果たしており、違うものはジャンクである、というわけだ。多世界解釈にのるかどうかはともかく、可能世界論はこれに有意味な解釈を与えられることはいうまでもない。隣接する宇宙同士では、紙の色は少しばかり変わっているかもしれないが、字面は同じだろう、ということである。


 もちろん、この程度のことは誰かがもっときちんと論じているはずではあるのだが。


 ということで久々に
デイヴィッド ドイッチュ『世界の究極理論は存在するか』
朝日新聞社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022574097/interactivedn-22
なぞリコメンドするわけですが。