共和主義・共同体主義の経済学・試論

 コミュニタリアンに肩入れする理由などないのですが、「俺がコミュニタリアンだったらこう論じる」って感じかな。


 以上のように考えるならば、我々は、共同体主義、ないしは共和主義の経済理論、政治経済学、というものの可能性についても考えることができよう。
 共同体主義、共和主義の独自の立場からの一貫した経済政策論、経済体制構想はあまり見受けられない。比較的多岐にわたる論点を取り上げたマイケル・ウォルツァーの『正義の領分』などを見ても、リベラル左派の福祉国家論、社会民主主義的混合経済体制論と有意に異なる議論が提示されているわけではない。
 共和主義者、あるいは共同体主義者においては、「政治」のパラダイムは周知のとおり西洋古典古代、ギリシアのポリスや共和政ローマに求められるわけであるが、「経済」のパラダイムが不分明である。古典期の共和政、デモクラシーの経験が、一見したところとは違って近代以降の議会制、政党制、大衆政治に対しても十分に有意義な知恵や教訓を与えてくれることはしばしば主張されるが、この時代の経済生活のありようが、近代経済にとって何がしかの有意義な示唆を与えてくれる、との議論はほとんど見られない。政治においては「ギリシア・ローマに還れ(学べ)」の標語は生きているが、経済においてはそうではない。
 実際問題としては古典古代社会においても、すでに市場も貨幣制度も存在し、相応に複雑な取引や財産管理のシステムが存在していた。しかしながらそれらは少なくとも一見したところでは、近代の複雑精妙極まる商取引制度、金融制度、会社組織等々と比べるといかにも単純素朴に見える。しかしそれ以上に重要なのは、古典古代の「思想」において、「経済」はほとんど「家政」と同義であったということである。実体としては家政の域を超える複雑な経済を発達させながら、古典古代人はそれについて、少なくとも近代のアダム・スミスなどと比べればまったくと言っていいほど、まともに考察した言葉を遺してくれていない。
 もし仮に共同体主義、あるいは共和主義の経済理論というものが、「経済」を(家族、世帯レベルのそれであれ国家共同体のレベルであれ)「家政」の枠内にとどめよ、という主張(を含むもの)であるならば、そんなものを相手にする必要はないし、未だに存在しないのだとしてもそんなものを作る必要はない。そうではなく、それが今日の複雑な資本主義市場経済に対して、有益な知見を提供できるものでありうるとすれば、どのようなものになるのか。


 手がかりはやはり「徳」の概念になるだろう。


 近代的な意味での経済学というものはどちらかというと、近代的な意味での自由主義ととても親和的である。基本的には経済学はあるがままの人間を尊重する、ないしはそれを所与として受け止める。あるがままの人間の行動様式を不可避の、変えられない前提として受け入れたうえで、そうした人間たちの行為が織りなす経済社会のメカニズムを解析しようとするし、また政策提言、制度設計を行う際にも、あるがままの人間の行動様式、価値観、趣味嗜好を所与の前提として、それ自体を変えようとはあまり考えない。
 このような発想は根底のところで、近代の自由主義的な政治哲学、倫理学と相通ずるものである。
 共同体主義倫理学的な立場を形容する言葉は「徳倫理学(virtue ethics) 」である。これは、道徳を「義務」や「規則」、つまり「行為」を規制し評価するものとしてではなく、「徳」や「性格」、すなわち行為の主体としての「人間」そのものを評価するものと考える立場で、古代や中世においてはむしろ当たり前の考え方であった。ところが近代に入ると一方では功利主義、他方では先に述べたカント主義という、人格をそれ自体を評価せず、もっぱら人格的主体の行う「行為」に焦点を当てる倫理学が主流となっていく。カント的な倫理観の中心は、「人格の尊厳は、意思を自分で決める自由をもつことにある」というものである。また人間が平等であるのは、一人ひとりが同じ重さだからではなく、一人ひとりが計りがたい重さをもっているからで、それぞれを「一つの世界」と考える。原点はキリスト教における魂のようなもので、人が生まれることは、それ自体が世界の創造に匹敵する奇跡である、という考え方だ。人格の尊厳は絶対的なのだ。そこからそれぞれの人格に対しては、それらをそれ自体として評価したり、価値付けできない、という発想が出現する。「善い行ない」「悪い行ない」はあっても、「善い人」「悪い人」はいない、ということだ。
 功利主義者にはこうした人格の尊厳の絶対性への信仰はない。彼らにとって人間の価値は、理論的には問題なく測ることができるものである。しかしながら彼らは、生きているということそのものは基本的に「善」と見なす。生きていることで、ものがより繁栄したり、生きているものが、さらに生き生きするのは善いことであり、その逆は悪いことである。しかし生きているというそのこと自体に対して、「悪い生」という言い方はしないのである。つまりここでも、道徳的評価の対象は「人格」「主体」ではなく「行為」なのだ。
 我々にとって、このようなカントの、あるいは功利主義の倫理観は馴染み深くある一方、若干の違和感をも引き起こすものである。「こいつは悪い奴」「この人は立派な人」という言葉遣いをわれわれは日常的にするが、これは「行為」を通り越して「人格」そのものを評価していることに他ならない。カント主義も功利主義も、我々の日常的な道徳意識のその側面については目をつぶってきた。もちろんそのことには相応の意味があるが、見落としには違いない。今日の共同体主義とは、カント以降、功利主義以降、そしてロールズ以降の今日、改めて道徳のこうした側面を無視しない「徳倫理学」の復権にもコミットしている立場である。
 ある意味では共同体主義は、人間の平等を無条件には認めない、という思想でもある。徳の高い人がいる、低い人もいる。価値の高い人、低い人の存在を認める。これはある意味、みなを同じ人間とみることで成立している近代自体のルールを破る試みといってよいだろう。もちろん現代の共同体主義者たちは、カント主義者たちや功利主義者たちが守ろうとしてきた「人間の(道徳的な)平等」という理想を否定するわけではない。ただ彼らは「人間は平等(であるべき)だ」と言ってしまえば話は済む、とは考えない。人々を道徳的に平等な力量(すなわちこれが「徳」「美徳」だ)を持った仲間たちに鍛え上げなければならない、それこそが政治の主題である、と彼らは主張するのだ。
 共同体主義者は、道徳において最も重要な契機はルールではない、と考える。カント主義や功利主義の考え方では、道徳とは煎じ詰めればルールであり、プロトコルである。ある行為を善いか悪いか評価するための尺度であり、「こういうことをしなさい」「これが善いことです」と示す指図である。しかし考えてみれば、ルールを杓子定規に当てはめるような行いは、道徳的な人間、あるいは立派な人間のがとるべき振る舞いではない。むしろ道徳的に成熟した人間は、杓子定規にルールを適用しない。ルールで人を厳しく追及することもしない。必要とあらば、少しぐらいずるいことだってするかもしれない。道徳的に成熟した人間とは「モラリスト」ではなく、酸いも甘いもかみ分け、清濁併せ呑むことのできる「大人」である。「徳」とはそうした大人の器量、力量のことである。
 たとえばマイケル・サンデルが話題の講義において、古代ギリシャ哲学者であるアリストテレスの「倫理学は大人のためにある」という言葉を引きながら、「道徳は教室では学べない」などと述べるのは、まさにそれゆえである。道徳をルールやマニュアルを使いこなすスキルと捉えたとき、その核心は机上で学ぶことはできない。繰り返しになるが「徳」とは、実世間で揉まれ、他人と付き合い、さまざまな経験をし、ひどい目に遭ったり、遭わせたりしながら、体得するものだからだ。
 そのような共同体主義の思想において、現実の政治はどのように位置づけられているのだろうか。先述のとおり、政治とは、徳のある人間を育てる場である、とアリストテレスを引き継いで多くの共同体主義者たちは述べている。カント主義や功利主義、近代における主流の、広い意味でのリベラリズム倫理学・政治哲学は、既にできあがった――完成された、という意味ではなく、既にその性質が定まって不変と想定された――ものとしての人間たちからなる世界を想定し、そのような人間たちの意志と意志との衝突を、あるいは利害関係の錯綜をどう調整するか、を主眼としている。それに対してコミュニタリアンは、できあがっていない――未完成であるがそれゆえに完成を目指して常に変化する、つまりは成長しあるいは堕落する人間たちを想定し、その集団的な成長(あるいは堕落)の場として政治を想定する。言い換えれば政治とは、ゲームではなく物語である。
 そして共同体主義、おそらくは共和主義にとっては、経済もまた同様に、有徳の人間を育てる場である。古典古代の都市の広場は、論戦が戦わされる政治の場であると同時に、市が開かれる取引の場でもあった。議会・集会、あるいは法廷と同様に、市場もまた舞台なのであり、この舞台の上で他者の目にさらされつつ経済活動は行われ、それを通じて人々は変容していく。
 共同体主義、共和主義は必ずしも「合理的経済人」仮説を否定するわけではないかもしれない。しかし経済学的モデルが、そしてそれをしばしば裏打ちする自由主義思想が、そうした人間性の安定性、不変性を想定する、あるいは人間は「あるがまま」でよい、と是認するのに対して、共同体主義、共和主義は人間の変容の、より強く言えば成長の可能性に強くコミットする。そして市場における経済活動もまた、そのようなものとしてとらえられることになる。


 しかしながらこれだけのことであれば、アレントの言っていることからだけでも十分にくみ出せる。近代経済においては市場が具体的な場ではなく、制度でさえない、もっと抽象的な空間と化してしまったことが問題ではないのか。政治にも同様の傾向があるとはいえ、まだそこでは議会(や法廷)という具体的な場が焦点であり続けている。それに対して近代経済においては、あれこれの具体的な商品市場も証券取引所も、そうした存在感を持ち得ていないのではないか? 
 もう少し具体的に、市場経済における「徳」とは何か、考えてみよう。経済活動において「徳」が問題になるのは、どういうときか? 経済活動、あるいは経済学という学問の枠内で「徳」が有意味となりうるとすれば、どのような局面において、何を問題とするときにか? 


 従来の経済学との関係でいえばやはりポイントは、広い意味での不確実性、情報の不完全性、不完備性ということになるだろう。
 スタンダードな経済学においては基準モデルを完備情報、完全情報の世界における、私的所有権と契約自由の貫徹した完全競争市場におく。各主体は互いの性質にも、また互いの行動の確実性にも、疑いを持たない、持つ必要がない。つまりここでは、各主体はお互いの「徳」に対してあれこれ思い煩う必要がない。お互いが道徳的・法的その他のルールを守るかどうか、また合理的な行動をとるかどうか、について頭を悩ます必要はない。
 そこからモデルをもう少し現実に近づけて、コミュニケーションの不透明性、情報の非対称性、更に客観的世界そのものの不確実性を入れていくとどうなるだろうか? 各主体はお互いの性質、価値観や誠実さについてあやふやな知識しか持たないし、互いに何をなそうとしているのか、についてだけではなく、現に何をしているのか、過去に何をしていたのかについてさえ、十分に知ることができない。もちろん、このような不確実性を軽減するための様々な制度的仕組みが現実の経済社会には存在しており、スタンダードな完全競争市場モデルは、いわばそうした制度的枠組みを先導する理念からなる観念的構築物である、といってよいのだが、広い意味でのリベラリズムと親和的で、現実にそうした政治哲学・道徳哲学に陰に陽に支えられてきたスタンダードな経済学においては、中央集権的国家権力に支えられた実定法制度を中心とするものとしてとらえれることが多い。
 これに対して「徳」重視の観点からこれをとらえるなら、不確実性・情報の不完全性を軽減する機能の主たる担い手は、そうした主体に外在的な環境、制度的枠組みよりはむしろまさに主体の性質、「徳」の方に担われることになる。制度は無視されるわけではないにせよ、それもまた外在的環境、あるいはできあがった機構としての国家というよりは、人々の自発的な行為が織りなす慣行を主体にしたものとして理解されることになる。
 オーソドックスな経済学においても、例えば「評判」といった概念によってこうした「徳」の契機はすくい取られてきた。すなわち「徳」とは、不確実で不透明な世界の中で、各主体が、他人にとって理解可能な主体であろうとして一貫した合理的な行動をとろうとする態度のことであり、また他者をそのような主体として理解し、関わろうとする態度のことである、といってよい。こう考えてみるならば、この「徳」という契機は、まさしく経済学の父でありリベラリズムの偉大な伝統に位置するアダム・スミスが『道徳感情論』で描いた同感のメカニズムと無縁のものではないこともわかる。
 リベラリズムの世界観においては、そうした相互信頼を可能とする基盤形成を、ニュートラルな国家が支える法制度が中核となって担うのであるが、共和主義・共同体主義においては、各人の能力として「徳」こそがそれを担う。ここにおいて古典期ギリシアのポリスが具体的な集住、都市共同体のことであって、中世・近代の「法人」、法的団体ではなかったこと、また共和政ローマも同様であり、ローマ法にも「法人」に対応するものはなかったこと――「組合」なども具体的な人的結合のことであり、抽象的な法的構築物ではなかったことを思い出しておこう。(その意味では国家を一種の法人とみなすヘーゲルは、リベラリズム陣営に引き付けて読まれるべきなのである。)
 他の主体との関わり合いよりも、物、自然との関わり合いにおける不確実性への投企であるところのイノベーションもまた、「徳」の観点から解釈することができるのは言うまでもないが、それについてはここでは措いておこう。
 かつて拙著『「公共性」論』で書いた通り市場機構とは、更に言えば司法制度にせよ、あるいは(単なる組織、団体ではなく)「法人」という仕組みにせよ、「公共性」の代替物であって、そうであることによってそれを掘り崩し、人々の「徳」を脆弱化させかねない危険を持つ代物なのだろう。たとえば企業倒産・事業再生を例にとれば、破産・倒産処理のための法制度が機械的な手続きとして完備すればするほど、当事者たちの地力、自分たちで面倒な交渉を進め、不良債権を整理し、事業再生する力は衰退していくだろう。ADRが奨励される主たる理由はもちろん、現実には制度は便利な自動機械にはなりえず、当事者たちの自力での交渉なしには清算も再生もおぼつかない、という現実ではあろうが、他面ではそうした現実を踏まえて、制度構築ではなく人々の地力を、つまりは「徳」を涵養しようという狙いもあるだろう。
(続く)