「市民的不服従」@おおやにき

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000405.html
 『公共性の法哲学』、ご本はいただいた(別に買ってあったけど)んですが合評会の回状は来なかった。ゲスト報告はしたけど会員じゃないからしょうがないか。
 以下ほとんど丸まる引用になりますが

一つは市民的不服従をどう評価するかという指摘があり、不法ですが何かと率直にお答えしたことについて。

ポイントは3つあってそのうち2つは当日も触れた。第一に「正しい」市民的不服従というのはそれによって公論を喚起することを目的とするわけだから、ちゃんと不法行為として扱ってその機会を提供しないと失礼であるということ。第二に不服従の対象として行政機関の一次的な行為と、それに対する司法的判断という二次的な行為は区別する必要があるだろうということ。後者を説明するために2ちゃんねるの管理人が損害賠償を払わないという例を挙げて「これを市民的不服従とか呼んでいいか」と問題提起したわけだが、別のところでちょっと騒動になったようなので少し余計に説明すると、どういう場合に管理人に責任ありとするかという実体法的な論点と、「責任あり」とされた判決に従うべきかどうかという手続法的な論点は区別しないといけないだろうという話。
(中略)
それは端的に言えば、実体法上の視点では加害者・被害者・管理者の利害のバランスが問題になるのに対し、手続法の観点ではそれにこの制度が額面通りに機能するであろうという国民全体の信頼というファクターが加わるからだ、ということになるだろうか。実体法上はどれだけ言い分があろうが、一定の手続を踏んだものはその手続自体の価値によって尊重しなくてはならないというのが法システムの根本的なお約束である。(中略)
当日は言及しなかった第三の論点は、「市民的不服従」とかそんなに特別なことなの? という話であって、確か西野喜一先生の裁判研究がそのあたりを実証していたかと思うが、最高裁判例変更をする場合に多くは「先触れ」的な下級審判決が存在するという指摘がある。(中略)確立した最高裁判例や法文の解釈に逆らって判決を出す裁判官というのがいて、しかもその勇気ある行動を上級審が事後的に是認する(判例を変更する)こともあるわけだ。(中略)そういうものを見ずに「市民」の行為だけに注目していていいのかな、という思いが私にはある。


もう一つは、これは論争の軸を師匠が的確に指摘したと思うのだが、社会秩序は稀少なのか過剰なのか、国家ないしその権力は弱くて崩壊の可能性を秘めたものなのか、逆に強すぎて危険な存在なのかという問題である。そこにおいて私は明確に前者、つまり秩序は稀少であり国家権力はむしろ弱いという立場を取るが、その一つの根拠は法整備支援などを通じて見た発展途上国の実情というあたりにある。深夜の誰もいない赤信号で止まる人間と止まらない人間のどちらが「法の支配」に適合的か? という問題提起があり、その方の意図は理屈をこねて止まらない人間の方が「法」を理解しているというあたりにあったのだが、私が「ベトナムでは誰も止まりませんが」とまあいつもの芸に走る。いつぞやシティズンシップ論について述べたときにも言ったことだが、世界ではようやく国民国家が成立したとかまだ作ってるとかいう地域の方がたぶん広いので、近代国家が確立して熟れ過ぎたあたりの社会の中の話だけをしても良くないんじゃないかとは最近よく思っているのであるとまあ、そういう話。

 権力について「過ぎたるは猶及ばざるが如し」をもっとうまい言い方でいえないかと苦慮する今日この頃だったりするんですよ実は。