東京法哲学研究会例会(12月16日) 瀧川裕英『国家の哲学』合評会を承けて

 他のコメンターのお二人に比べて素人臭い外在的なコメントを、しかも不十分にしかできなかったので、その後の討論を踏まえて「国家論」の今日的課題について少し考えてみた。


 今回の瀧川の著作は規範的政治論としての国家論を自覚的に打ち出したものであり、国家の概念分析や本質論にはあまり拘泥せず、「政治」や「国家」という概念についてもかなり割り切って本書なりの限定された(むろん常識から乖離してはいないが必ずしも自明というわけではない)暫定的定義づけを行い、その範囲内で作業を進めている。その意味でノージックのASUの精神に近い。
 論点はあまりに多岐にわたり包括的であるが、中心的主題として印象に残るのは以下のとおりである。
 本書前半の主題は遵法責務論、法に従う道徳的義務についての弁証である。そしてこの遵法責務は政治的責務と大体において重なるものとして観念されている。(両者の関係について厳密には最終章で整理されている。)
 本書後半の主題は、政治的責務の単位としての国家の正当性の弁証である。そして本書の特徴は、国家が本質的にローカルな存在として捉えられているということである。道徳的義務はノン・ローカル(あえてグローバルとは言わない)であるのに対して、政治的責務はローカルである。その理由は、直接に人を拘束する法は基本的にはローカルであり、そのローカリティの単位こそがここで「国家」と呼ばれているからである。
 伝統的な国家論においては、あくまでも主題をひとつの個体としての国家にとどめ、国家論の守備範囲を本書でいえば前半にとどめることも許容された。国家間関係、国際社会の問題は、論じられることがあっても二次的な主題とされた。国家は対立概念としての(市民)社会と対にして論じられるものであり、国家間関係は言ってみれば「国家本質論」においては必ずしも必要ないものとされていた。これはロールズノージックの場合にも同様である。
 これに対して本書は、国家論にとっての中心問題として国家間関係、国際関係をとりあげ、一国レベルの議論と世界レベルの議論とをシームレスにつなごうという野心的な試みである。基本的なアイディアは、ノン・ローカルな普遍的道徳的義務(としての法状態実現義務)をできるだけ実現するための、現状におけるセカンドベストの工夫として、複数国家の併存による分担という現状がある、とするものである。
 しかしながらこのような、二つのレベルをシームレスにつなごうというタイプの国家論、政治哲学は、著者も当然に踏まえているように実は新しいものではない。とりわけてジョン・ロック『統治二論』と、イマニュエル・カントの政治哲学・法哲学的議論が先蹤として意識されている。ただ敢えて言えば範型としてより強く意識されているのはカントのそれであろう。何となれば、ロックは空間的に、また利用可能な資源においても開かれた世界を想定しているのに対して、カントは閉じた有限なグローバル(地球的)世界を念頭に置いているからである。


 これはいうまでもなく問題をある種の「共有地の悲劇」、あるいは国際政治学や安全保障論の言葉遣いでいえば「キティ・ジェノヴェーズ問題」(「誰かが対処するだろうと思っていたら誰も対処しなかった」)として捉えたうえで、現状の主権国家体制を、グローバルな法実現の領域国家による地域的分担、と位置付けたものである。これはまた人類世界が地球上においてグローバルに閉じており、ロック的自然状態のように「外に逃げる」という解決法が封じられている、という前提をもともなっている。


 ただここにもう一つ付け加えておくべき論点がある。それは瀧川自身も『UP』2017年10月号のエッセイで示唆しているごとく、国家の時間的次元である。
 すなわち、グローバルな法状態を実現する理想的な機構としての地球共和国を展望しつつも、瀧川は現状の領域国家を不完全な国家、あるべき国家としての地球国家の前段階とか不完全型とはみなさない。その領域内で法状態を実現できているならば、領域国家はそれ自体で完全な国家である。では、何が国家を国家たらしめているのか? 瀧川によれば非常に単純素朴に「(何が法状態であるかについての)決定と強制」であるわけだが、ここに私はもう一つ、まさに瀧川も認めているごとく、「不死性」「永続性」を加えておきたい。
 瀧川自身の理解とは若干ずれるものであるが、法的状態の中でもいわゆる「法の支配」、すなわち、法を統治権力(決定と強制)の主体の単なる手段とするのではなく、逆に統治権力主体自身の地位を法に基づけるような体制を「共和政」と呼ぶならば、そのような共和政の実現にとって、果たして「国家」は必要なのか? という疑問が生じる。むろんここで改めて「国家」の定義が問題となる。ここでは今日的に、ヘーゲル以降の言葉遣い、つまり「国家」と「(市民)社会」を峻別する立場をとり、国家を単なる共同体とも、それどころか法共同体とも等置しないことにしよう。領域国家、というよりヘーゲルが念頭に置いているような主権国家、これが我々の考える今日的な国家、いわば「狭義の国家」であるわけだが、それは恒常的な統治機関としての「政府」を備え、法人格を持っている。それに対してこの近代的な主権国家が「法の支配」の原点としてお手本としているはずの古典古代の共和政、ギリシアのポリスや初期のローマには、いまだ「法人」概念は存在しないし、会議体まではあっても恒常的な執行・行政機関は存在しない。我々はそれらを「都市国家」とかあるいは「帝国」と呼んだりするが、それらはやはり法人格を備えた近代主権国家とは有意に異なる仕組みである。
 現代の主権国家の下にある我々は、「国家」という言葉を両義的に用いる。すなわち、市民社会とは区別される統治機関、「政府」の意味合いで用いたり、あるいは一つの政府のもとに統合された市民社会、法共同体のことを「国家」と呼んだり、と適宜使い分ける。しかしながら古典古代のポリスや帝国はそのようなものではない。あえてそれらをも「(広義の)国家」と呼ぶならば、それはもっぱら法共同体の意味でそう呼ぶしかない。しかし本当にそれらを「広義の国家」と呼んでよいのかどうか、実は明らかではない。すなわち、「政府」なしの法的状態、法共同体をも「国家」と呼ぶならば、国際法の下での国家間秩序を「国家」と呼んではいけない理由がなくなってしまうからだ。


 ここで、統治権力による強制なしでの法的状態の実現の可能性についての理論的考察の歴史を振り返るならば、我々は例の「フォーク定理」、囚人のジレンマの反復による協調の達成、というシナリオのことを思い出さねばならない。あのシナリオにおいて決定的なポイントは、同じゲームが無限回繰り返されることが予想される、というところであった。
 国家なしの法実現のありうべきシナリオとして、当事者間の自発的協調がこの「フォーク定理」的メカニズムによって実現される、というものがあるが、このメカニズムが実現するには、関係する当事者が不死ないしそれに近い永続性を期待される、という前提が満たされていなければならない、とした場合、これが個人間において作動するメカニズムとして解釈することは非常に難しくなる。
 すなわち、これを集権的国家抜きでの、市民社会におけるローカルな法秩序の自生的実現のメカニズムとして考えた場合には、その主役は個人であるよりは永続的な存在としての家なり部族集団なり団体なりである必要がある。それに対して、グローバルな世界における巨大組織としての国家間関係を想定するならば、「フォーク定理」的メカニズムによって、集権的な超国家組織なしでの、自生的な法実現が展望できないこともない――このように考えることができるだろう。
 このように考えるならば複数の領域国家の共存という仕組みは、むろん単一の地球共和国の確立に比べればセカンドベストに過ぎないかもしれないが、実行可能性という点では相応の利点を有するということになる。すなわち、グローバル政府の樹立は実行可能性の点で困難であるのに対して、ローカルな国家は既にある程度確立している。そしてこのローカルな国家がある程度の永続性、不死性を担保しているのであれば、グローバル政府が存在しなくとも、国家間の自発的協調によって、ある程度の法状態の実現が可能となるのではないか、ということだ。現在の国際秩序をそう評価することは可能だろう。そもそも、仮にグローバル政府が成立して、国際紛争の頻度が現状よりも低下したとしても、その樹立と運用のコストがあまりにも高ければ、状況は現状に比べて改善したとは言えないだろう。
 こう考えるならば、瀧川はこの国家の時間的次元、つまりは個人を超える不死性、永続性という問題についてもう少し突っ込んで論じるべきであったと思われる。


 ただそれでも残る問題は、法状態とはただ単に国家間の平和が保たれればよいというのではない、ということだ。むしろ法状態の基準は個人の権利が守られるというところにこそある。複数国家の協調による法状態の実現のスコープは、国家間での相互の権利の保障にまでは及んでも、各国家の統治下にある個人の権利の保障にまで充分に及ぶかどうかはまた別問題である。
 この場合に当然に思いつかれるのが、個人の移動の自由が保障されたうえで、複数国家間における競争メカニズムがはたらかないか、というアイディアである。ただしこのアイディアは、領域国家が主権国家として、領域内における決定と強制を独占しているのであれば、到底現実的なものとは言えない。
 個人の移動の自由、移民の自由がないところで、それでもなお国家間において、より良き法実現を目指しての競争が行われる可能性はないだろうか? ひとつ考えうるメカニズムは以下のようなものだ。すなわち、領域内、支配下の個人の権利と福祉に対して配慮しない国家の経済は停滞し、それを財源とする軍事力も弱体化する。その結果国家の安全保障が危殆に瀕するならば、統治者はある程度個人の権利と福祉に配慮せざるを得なくなる――つまりは「富国強兵」シナリオである。このイメージは言うまでもなく日本をはじめとする後発国の近代化を支えるイデオロギーとしてはたらいた実績がある。しかしながらここで注意すべきは、このようなシナリオがリアリティを帯びるためにはいくつかの条件があり、その一つは戦争行為が国家の権利として容認されている、ということである。極端な場合には、軍事力の低い国家は戦争に敗北して征服されることもありうるし、少なくとも敗北によって統治者の面目は失われる、というプレッシャーがなければ、このような「競争」メカニズムがはたらくことは期待できない。
 20世紀後半以降に「戦争違法化論」が支配的となり、曲がりなりにも瀧川の本書でも論じられているようなグローバルな正義論、法秩序論がリアリティを持つようになった時代は、国家主権に対する強力な保障があるがゆえに、こうした競争圧力もまたシャットダウンされてしまう。独裁国家、破綻国家が高い生存力を持ってしまうゆえんである。「人道的介入」という奇妙な発想が出てこざるを得ないのも、このような事情から来ると考えるべきだろう。