『所有と国家のゆくえ』への感想を横目で見ながら

 いろいろと面白い論点を振っていただいたので、少し考えてみる。(書きなぐりですからどんどん容赦なく突っ込んでください>特に専門家の方。)

 経済学的素養がある人が、立岩理論に対して抱く違和感――これは主に今回のネット上でのやりとりだけでなく、吉原直毅主催の規範理論研究会での『自由の平等』論評会の様子から、ぼくが想像するものである――の焦点は何処にあるのか? 
 id:kuma_asset氏やid:svnseeds氏が触れているように、まさにそれはフィージビリティ、実行可能性に関わっているようにみえる。とりあえず問題となっている立岩氏の端的な発言は、

「現在の技術の水準と働ける人の数とを考え合わせたとき、いったい、どれほどの一人当たりの労働が必要かと考えるなら、少なくとも現状に上乗せをするほどのものは不要であると考えられる。より多くの人に働いてもらいたいなら、労働を分割して、それを実際に可能にすることが求められる。」
『所有と国家のゆくえ』 p.61-62


である。これに対してsvnseeds氏はまず「それを実際に行った場合には、現在の技術の水準も産出の水準も維持できない」と指摘する。id:dojin氏もまた、

「確かに立岩氏はここで、ある経済の生産能力のレベルを、「現在の技術の水準と働ける人の数」で計ることができる、という思い違いをしてしまっているようだ。この過ちは、立岩氏の所有に関する原理的考察がおかしいからこうなったというより、ただ単に経済学的な無知から来ている。」(http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060904#p1


と評する。ここで「思い違い」とは何か、具体的な指摘はないが、単純に考えるなら「需要と供給」の論理がまったく立岩氏によって無視されている、ということだろう。あるいはインセンティブの問題、と言ってもよい。
 おおざっぱなさわりの議論だけすると、人々の労働はその報酬を中心とするインセンティブによって引き出される。ここで単純化のためにインセンティブとして賃金のみをカウントに入れるなら、賃金と労働意欲・労働供給は関数関係にあり、連動してしまう。
 ここで問題となっている「労働の分割」、ワークシェアが、何らかの手段によって需要サイドからなされたら、どうなるか考えてみよう。これは従業員一人あたりの労働単位(労働時間等)を減らして、需要サイドの雇用者が必要とする総労働をより多くの従業員に分割する、ということだ。ここで雇用者が用意できる総労働費用を一定とすれば、分割された新しい単位あたりの賃金はおそらく低下せざるを得ない。問題は、そうなると従業員側でも労働意欲・労働供給が低下するおそれが高い、ということだ。結局この場合労働需要は満たされず、雇用者のビジネスに支障を来すであろう。
 それに対して、従業員、労働供給サイドのインセンティブを確保すべく、新しい労働単位あたりの賃金が切り上げられるならば、今度は総労働費用が増加して、やはりビジネスに支障を来すことは言うまでもない。
 こうした問題点の指摘自体は、非常にもっともなことである。ではこの批判の論法を、立岩構想全体に対して広げてみよう。


 「冷たい福祉国家」「再分配する最小国家」において、再分配の基準となる原理はどのようなものであり、それを実現する力はどこからくるのか? ここでの再分配が公共財のみならず、私的財の社会移転までを含むとするならば、それはどうしても富裕者・高所得者に課税してその富を召し上げ、この富を貧困者・低所得者・その他の弱者に移転する、という作業を中核的なものとして含まざるを得ない。これは言うまでもなく古典的な「最小国家」よりも強い私生活への介入、私的自由のより強い制限を意味する。
 もちろんここで「再分配する最小国家」は、そうした私生活への介入、拘束を、古典的「最小国家」よりは多く行わざるを得ないにせよ、古典的「(暖かい?)福祉国家」に比べれば小さくすることを目指す。しかしこれは具体的にはどのようにしてなされるのか? 古典的「福祉国家」の場合は、私生活への介入、拘束を以下のような原理、基準で行うことによって、自己の正当性と効率性を確保しようとする。すなわち、富者から貧者への移転に際して厳しいコントロールをかける。具体的には、所得調査・資産調査などによって、移転給付の受給資格に対して、強い制限を設ける、というのである。このようにして移転の総額の上昇に歯止めをかけ、財政的合理性を確保しようとするわけだ。
 ここで問題は保険原理を――実際には擬制であっても、擬制擬制なりにいわば考え方のモデルとして――援用できる社会保険(失業保険、医療保険、年金保険等)とは異なり、この制限を「まぎれのない客観的なルール」に則って行うことはほぼ不可能であるし、仮にそれが可能だとしても、そうした「ルール」をいかにして設定するのか、という大問題があるし、またその「ルール」の実地での解釈適用、運用に際しても、ルール不在の全くの裁量の場合に比べればまだましとはいえ、やはり裁量の余地がある、あらざるをえない。ゆえに「福祉国家」は「暖かく」、介入主義でいくぶん強権的なものにならざるを得ないのだ。
 それに対して「冷たい福祉国家」、介入を差し控える「再分配する最小国家」とはどのようなものとなるのか? ひとつの可能な解釈としては、裁量の範囲を可能な限り切り縮めて、「まぎれのないルール」にもとづく移転給付を行う国家である。その中で最も極端かつシンプルな仕組みとして、一方で「負の所得税」制、他方でいわゆるベーシック・インカム制が挙げられる。「冷たい福祉国家」の一例として負の所得税を基幹税とする政府はもちろん想定可能だが、立岩構想自体はいうまでもなくベーシック・インカムの方とこそ適合的である。
 もちろんこうしたルールによる「冷たい福祉国家」の手前に、もう一方の極限例として、申請に対しては無条件に移転給付を行う国家、「暖かすぎる?福祉国家」というものも考えられるが、この場合剥き出しの形で「フリーライダー問題」が浮上してくるだろう。きわめて多くの人々が負担を回避して給付に与ろうとして、制度の採算がとれなくなるはずだ。仮に給付に対して金額的な上限を設けたところで、申請そして無条件給付取得の権利が万人に保証されていたならば、結局どうしようもない。
 しかしミクロ的な個別ケースに対してほぼ自動的に適用・非適用を決められる「まぎれのないルール」が仮に設定できたとしても、そのマクロ的なフィージビリティは疑問とせざるを得ない。
 例えば今日の、日本を含めた多くの国の公的扶助制度にしても、あるレベルでははっきりと「まぎれのないルール」に従っている。ただしそうしたルールは基本的に給付の内容、水準についてのものが中心であり、制度の具体的な運用、誰がどのような場合に給付を受けられるのか、については基本的に個別ケースごとの担当者の裁量に依存している。そして個別ケースを担当する担当官吏には同時に、個々のケースの深刻度、申請者における給付の必要度を判断するという仕事のみならず、総額レベルでのマクロ的採算性に対する考慮も要請されている。そして今日の日本のような、不況(の名残)と財政難との板挟み状況下では、過剰な申請と不足する給付財源との間で、ショートサイド原則に従ってその不均衡を調整する機能は、基本的に官吏、役所の裁量に任されている。市場における、価格を介した需要と供給の調整のように、給付水準、給付の需要、そして給付の供給を三つながら自動的にバランスさせる手続き、「まぎれのないルール」はありえない。かくして現状の福祉国家は、基本的にある過酷さを背負っている。


 もう少し具体的に、今日の日本の状況を念頭におきつつ考えてみる。現状では不況(の余波)のせいで、生活保護の給付水準が、市場での実勢最低賃金によって可能となる生活水準を上回ってしまっていると推測される。となるとここで、生活保護給付が求職者たちにとっての留保賃金水準を既定してしまい、彼らの期待する賃金水準が、現実の市場での均衡最低賃金を上回ってしまうので、労働市場が歪められてしまうのではないか――との危惧がすぐに思い浮かぶ。実際には事態のそうした展開は、生活保護行政の窓口規制でもって――労働能力があるとみなされた者の申請が、窓口で却下されることによって――回避されていると思われる。窓口規制は財源の不足をカバーするのみならず、生活保護給付が労働市場を歪めることも防止しているのであろう。

 となれば「冷たい福祉国家」は不可能なのだろうか? ここでいわゆる「ベーシック・インカム」と「負の所得税」について考えてみたい。(続く)