ワークフェアとベーシック・インカム

 前回の続きというか、横道というか。
 先月の「ブログ解読」でも紹介したこれが議論の見取り図として便利だが、ここでは少し違う話を。


 ワークフェアベーシック・インカムとが本当に対立概念なのかどうかは実は十分に明らかではないのだが、少なくとも近頃の日本におけるベーシック・インカム派の一部左翼(山森亮とか、今月の『論座』に書いてる堅田香緒里とか)は明らかにベーシック・インカムワークフェアへの対抗戦略として構想している。それは一言で言えばフーコー左派的な「反・規律管理社会」論である。「暖かい?福祉国家」においても資力・所得調査による規律訓練と主体化がなされていたが、今日のワークフェア構想においては給付が就労・職業訓練とセットになって、よりいっそう過酷となっている。そこでオルタナティブとしてのベーシック・インカム構想――規律訓練なき給付――というわけだが……それは「牛刀を用いて鶏を裂く」の類ではないだろうか?  


 まず言っておくならば、規律訓練なき社会などどのみちあり得ない。我々にできることは規律訓練を可能な限りエレガントにしていくことだけだ。ちなみにジョン・ロックという人は、規律訓練という主題を家の中に封じ込め、私事化=脱公共化したわけであり、無視・拒絶はしていない。
 今日の我々の社会では公認された規律訓練の場としては家庭・学校・企業・軍隊・病院・福祉施設などがあるわけだが、企業、並びに徴兵制ではなく志願兵制が主流となりつつある今日の軍隊は同じく雇用という契約関係によって、そこにおける規律訓練の作用は限界づけられている。また病院、義務教育以外の学校においても、消費者主権の論理の拡延・擬制による契約的な規制がなされている。契約の論理が及ばない主たる領域としては家庭と義務教育がある。


 今日的なワークフェア構想にまずいところがあるとすれば、要するにそれが産業政策主義というか、重商主義への回帰、つまりはまずい規律訓練に他ならない、というところではないか。
 ワークフェアはしばしば、それこそ重商主義期のワークハウスなどに類比されるわけだが、ワークハウスは経済合理性を目指した職業訓練施設というよりは、治安維持のための収容施設だったわけである。開き直ってそのような福祉兼治安維持政策としてワークフェアを考える(「小人閑居して不善を為す」を防ぐ)のも悪くはないが、経済合理的な労働市場政策、人的資源活用政策として考えるなら、少々無理がある。
 もし仮に今日の失業の主要な部分がいわゆる構造的失業・ミスマッチ失業であるならば、職業訓練はその解消に多少は役立つだろうが、そうではなくむしろ有効需要不足によるケインズ的失業であるならば、ほぼ意味はないだろう。必要なのはマクロ的な景気政策だ。
 では仮に主たる問題が構造的失業であるなら、職業訓練政策は十分に有意義か、といえばそれはそれで疑問が残らないでもない。外部効果の大きい基礎的な公民教育ならともかく、多少とも専門的な職業教育となると、まず公平の観点からすれば、それは基礎的な教育に比べて外部性が少なく、その費用については受益者負担を基本とすべきであろうから、民間に任せるのが望ましい。公的介入は民間の奨学金などの形で行えばよいだろう。(企業内訓練に奨学金を与えることは可能か? 結局それは企業への雇用奨励助成金ということになってしまうのか?)効率の観点からしても、民間業者の適応力の方に期待したいし、官の役割は監督程度にとどめた方がよいのではないか。
 つづめて言えば公的職業訓練は、ケインズ的失業のときには役に立たない(勤め口を作れない)し、かといって構造的失業のときには、クラウドアウト、民業圧迫を引き起こすのである。
 また規律訓練という観点からしても、民間主導の職業訓練に対しては、契約関係によるコントロールが期待できる。これと政治的統制とどちらが有効か、は一概には言えない。


 ……とここまで書いてみて、これって前のニート論争と同じ論点をたどっているに過ぎないことに気が付いた。あたりまえか。


 ベーシック・インカムそれ自体についてはまだ勉強しなくてはならないが、実行可能な範囲でのそれって結局「負の所得税」と大差ないものになってしまうような予感。