「労使関係論」とは何だったのか(8)

 氏原正治郎を中心とする「東大学派」とでも呼びうる労働問題研究者集団に実体があったのはおそらくは1960年代半ばまでであり、その最後の世代は1930年代生まれの研究者たちである。その次の世代的な集団はおおむね1950年前後生まれの「団塊の世代」およびその後続世代の研究者たちであり、大学闘争を経験したこの世代においては、すでに「東大学派」としての連帯感はおおむね過去のものとなっている。
 既に30年代生まれの世代において、研究者養成における徒弟制的な風潮が相当程度払拭され、その意味でも研究者集団の一体性は解体の方向に向かっていた。大学闘争の余燼の中、後続世代はそうした空気を自明のものとして受け入れ、薫陶は受けるが指導は受けない、という形で研究者としてのキャリアを形成した。
 この50年前後世代の研究者たちに、理論・方法論の面で最も強い影響力を発揮したのは、おそらくは中西洋である。研究者としての中西の出立は幕営・官営・三菱と経営主体を転々とさせた、日本最古の本格的な近代製造業事業所である長崎造船所の研究であるが、着手から完結までに40年以上の年月を費やした(正確にはいまだ未完である)長崎の研究に比したとき、70年代から80年代にかけて広く読まれ、後続の研究者たちに大きな影響力を及ぼしたのは、むしろ第一次大戦前後の三菱神戸造船所の一連の労使紛争を分析した論文「第一次大戦前後の労使関係」(隅谷三喜男編『日本労使関係史論』所収)の方である。そしていま一つの、大きな影響力を持ったmagnum opusは、大河内一男の「生産力理論」を焦点に、まさに60年代半ばまでの「東大学派」を終着点として、戦中から戦後にかけての労働問題研究を総展望した(巻中の「補論1」は60年代までの氏原理論と「氏原山脈」の分析として白眉である)『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』である。
 前者については既に述べたとおり、「労働一般・対・資本一般」ではなく、一個の経営体に照準を当てた、資本主義分析としての労使関係分析の模範演技とでもいうべき論文として、後続世代の研究方法に対してパラダイムを提供した。しかしこの論文の射程と問題性についてはあとで立ち返るとして、まずは後者の意義について考えてみよう。


 この本は副題を「資本主義国家と労資関係」とすることからも明らかなごとく、労資関係と労働政策に焦点を当てた資本主義国家論として受容された(「労資関係」は「労働一般・対・資本一般」までをも含めたマクロ的な関係である、としておけば大過ない)。折から西欧ネオマルクス主義の国家論ルネサンスの時代であり、50年前後世代の末端に位置する佐口和郎、東條由紀彦の場合には、この時代以降改めてブームとなったグラムシヘゲモニー論の影響が顕著である。中西自身はグラムシに対し一顧だに与えてはいないが、グラムシブーム、あるいはフランスのアルチュセール派、旧西ドイツのフランクフルト学派をも含めたマルクス主義政治学の資本主義国家論と、本書は併せて読まれることになった。
 そのような読み自体が誤っているわけではない。大河内一男の「社会政策の生産力説」を基軸にして資本主義国家論と労資関係論の枠組を総括的に提示しようとする本書をマルクス主義的に読むことは自然である。ただし主として前半部における、大河内理論をめぐって展開された「社会政策本質論争」を分析しながらの議論はそのようなネオマルクス主義国家論の枠組で読み直すこともおおむね可能であるが、後半、イギリスの社会政策・労働政策の研究史を展望する形で展開されるイギリス国家論は、実はそのような枠には到底おさまらない。
 『研究』が「国家論」であることを標榜しまたそのように読まれてきたということは、資本主義社会における労資関係の根底にある階級支配の関係を、市民社会レベルでの、資本主義経済の自律的メカニズムによって成立しているものとしてではなく、国家権力による外在的強制によって初めて可能となっているものとして理解することを主張する著作として(例えば高橋克嘉『イギリス労働組合主義の研究』)読まれてきたということでもある。しかしむしろ『研究』は「国家論」抜きの「市民社会論」としての経済学的労資関係論に対して単に「国家論」を付加するというようなものではなく、「市民社会論」自体の(そして当然に「国家論」の)理解の変更を迫るものだったのだ。


 『研究』「第三編 日本における「社会政策」研究の問題史」がイギリス社会に即して描き出した、近代国家における<法>の二層構造、「コモンロー common law(慣習法)」と「スタチューツ statutes(制定法)」の接合は、自律的経済社会としての「市民社会」の<法>、すなわち資本主義的経済法則の反映と、それに対する超越的主体としての「国家」の政策的介入手段、との二重構造として読まれることが多かったが、それは根本的に誤った理解である。むしろ『研究』が描き出したのは、「経済法則」にも「国家意志」にも換言できない固有のオーダーとしての<法>と<所有>であった。
 以下に私なりの理解を示す。
「コモンロー」は中央集権的国家としてのイギリスにおける、統一的司法制度の下での判例の集蔵体……イギリス国家権力の支配下において普遍的に通用するルール体系である。その限りで確かにそれは「市民社会」の<法>、すなわち、一つの普遍的ルールの下での対等で同格の「市民」的主体たちの織り成す《社会》のそのルールである。しかしそれは長らく「土地所有」本位の<法>であり、そこでの「市民」的地位「市民権」の基盤である<所有(=財産)>は資本主義的市場経済社会におけるような、「契約」を通じた「取引(=交換)」によってその「価値」が承認されるものではなかった。すなわち、初期の「コモンロー」は自律的な資本主義社会の経済法則の反映と呼べるようなものではなかった。そこでの<所有(=財産)>は「契約」によって「交換」されることによってよりも、「占有」されることによって、また(「交換」ではなく)「譲渡」されることによって(基軸的には「遺贈」/「相続」によって)社会的に承認されるものであった。つまりここでの「所有社会」としての「市民社会」はなお十分に「市場社会」、市場に売るべきものを持ち出す者たち、買うべき者を見出す者たちすべてにより組織される社会ではなかったのである。
 やがて市場経済の発展は、<所有(=財産)>を「契約」を通じた「取引(=交換)」によって承認された「価値」という尺度でもって新たに意味付け直していく。「市民社会」は「市場社会」という側面を持つようになる。それが「所有社会」であることになお変わりはないが、そこでの<所有>は主に市場との関係で社会的に承認されるものへと変貌しているのである。
 このような<所有>の新たな定義を、「コモンロー」は主に商業慣行を判例の中に取り込む形でルール化していく。すでに見たように「コモンロー」は単に市場経済の内生的なルールの反映などではない。商業慣行=市場経済の内生的なルールもまたそれ自体で「市民社会」の<法>、市場に売るべきものを持ち出す者たち、買うべき者を見出す者たちすべてを律する普遍的ルールではあるが、それと「コモンロー」とは相互に独立であった。そして「コモンロー」はこの市場のルールを学習し、取り込んでいったのである。
 しかし「コモンロー」は、土地取引や通常の動産の取引についてのルールを取り込むことはできたが、労使関係、雇用関係、労働力の取引関係のルールを取り込むことは十分にはできなかった。ここではむしろ、「スタチューツ」の方が決定的な役割を果たしたのである。


 さて以上に『研究』のイギリス市民社会論を簡単に要約したわけであるが、そこにおける難点を指摘するならば、実は『研究』においては、なぜ労働力の取引関係のルールの法化に「コモンロー」は失敗したのか、が十分に論証されていない。この論証の不十分さが、「コモンロー」を市場経済のルールの単なる反映と見做し、「スタチューツ」の介入を一種の経済外的強制、「労働力商品化の無理」の国家による救済と見做す、広く流布した誤読を誘う根本原因である。実際『研究』「第一編 日本における「社会政策」・「労働問題」研究の方法史」ではそのような理解も提示されていたのであり、そうした誤解に中西自身の責任もあることを看過することはできない。売り手と買い手が対等であると見做す「コモンロー」によっては、不対等な関係としての労使関係、雇用関係のルール化はできず、よって「スタチューツ」の動員が必要になった、という理解を許す記述を、中西自身がなしていたのである。
 このような理解であっても、当時のマルクス主義国家論の水準に照らしてみるならば、それ自体大きな前進であることは言うまでもない。この当時のレベルのマルクス主義国家論であれば、19世紀英国が体現した政策体系・国家機構を自由な市場経済――すなわち、形式的平等はすでに達成された世界とみなし、ただ労使間の交渉力の非対称性ゆえに、階級間の実質的不平等が生じてしまう、と考えられていた。そして帝国主義から国家独占資本主義は、加藤栄一の場合も含めて、この非対称性を経済外強制――労働組合や社会政策による市場への介入によって是正する仕組みであり、その根拠は戦争遂行のための国家総動員の必要性や、独占の進行に伴う市場経済の不安定化に求められていた。
 それに対して上記の誤読された中西の理論は、19世紀に対して代替的なヴィジョンを提示する。つまり19世紀の資本主義は実質的のみならず形式的にも対等ではなかった、というのである。中西が注目するのはたとえば、集団的労使関係を律する団結(禁止)法以上に個別的労使関係――後の言葉でいえば「雇用関係」を律する主従法 Acts of masters and servants である。雇用契約における契約違反に対する制裁が労使間で非対称的であること――雇われる労働者の側おける違反には、しばしば刑事罰が適用されることの指摘の、後進に対するインパクトは大きかった。またそれ以外にも工場法における工場監督官の出現や、その内容においてはあたかも「小さな政府」的なレトリックを用いつつ、実際には初の全国レベルの救貧行政機構を実現することとなった新救貧法などへの注目は、19世紀英国に対する「古典的自由主義の理念を体現した「小さな政府」」というイメージの大幅な修正を迫るものであった。


 しかし繰り返すが、以上のごとき読み方は『研究』に対する誤読――少なくとも不十分な読解である。そこではいまだに「市民社会」と「国家」の二分法が温存されてしまっている。普通のマルクス主義では19世紀を経済外強制の少ない「市民社会」優位の時代とし、20世紀を「国家」による経済外強制の全面化の時代として理解する(栗田『史論』もそうした枠組の範囲内である)のに対して、この読み方による中西理論では、19世紀理解において既に、国家による経済外強制があって初めて資本主義市場経済が成り立つ、という図式が提示されている。それでもこの理解においてもなお、たとえば雇用関係の法化がコモンローではなくスタテューツによって初めて可能になったように描くことによって、水平的「市民社会」と垂直的「国家権力」との二分法が温存されてしまう。つまりそれでは「コモンロー」を「市民社会」に、「スタチューツ」を「国家」に機械的に振り分けることになってしまう。
 だが先に提示した理解に沿うならばそのような読解は不十分なものである。おそらく問題は「市民社会」の限界(=「労働力商品化の無理」)の「国家」による克服ではない。そこには「市民社会」の「市場社会」化に対応しての、「国家」の側から観察された「市民社会」の「市場社会」化が刻み込まれている、と考えねばならないのである。
 「コモンロー」の限界、それが労使関係、雇用関係をルール化できなかったことの「スタチューツ」による克服の論理に対する解釈は少なくとも二通り可能である。まず第一に、それは「市場社会」が自生的に結晶化させていた労使関係、雇用関係のルールを「コモンロー」が取り込みえなかったからである、という解釈。そして第二に、それは労使関係、雇用関係のルール化はもはや「市場社会」の内生的なルール化によっては十分に組織されえず、「国家」は単に「市民社会」の自生的秩序を観察して記録するだけにとどまらず、それを積極的に作り替える必要に駆られたからである、という解釈。『研究』はこの二つの解釈に対して開かれているが、そこから先へはまだ十分に踏み出してはいない。


 中西の『研究』におけるこうした問題系を適確に読み取って批判的に発展させた作業が、まさに「団塊の世代」に属する森建資の『雇用関係の生成』である。私なりに解釈すれば、それは「コモンロー」がイギリス市民社会が自生的に結晶化させていた労使関係、雇用関係のルールをかなりの程度取り込みえていた――コモンローにおいても、家族・身分関係の法を基盤に、契約法の論理が交えられたようなLaw of masters and servantsという法分野が成立していた――ことを論証するものである。一見それは「スタチューツ」の意義を小さく見せることによって中西の立論に異を唱えているようにも読めるが、「市民社会」を「市場社会」と同一視せず、不対等な身分関係をも孕んだものとして理解すること、そして「コモンロー」をそのようなものとしての「市民社会」の<法>の体系化と見做すこと、において忠実に中西の問題提起を受け継いでいるのである。
 あるいはまた、『製糸同盟の女工登録制度』以来の東條由紀彦の作業は、日本の「コモンロー」なき「市民社会」に日本国家権力が接近し、その<法>を解読し、介入していくありようを描くものとして読むことができる。


 森、東條といった団塊〜ポスト団塊世代の労働史家たちが切り開いたのは、そもそもはじめから、いわばその「自生的秩序」のレベルにおいて閉鎖的・非対称的・垂直的な身分関係をもはらんだ領域として「市民社会」を理解する、というアプローチである。それでは「国家」はどこに位置することになるのか? 
 この問題に対して東條が提出している構図は、まさに国家を「ヘゲモニー」として、知識社会学的な場として理解するものである。更に東條は中西的な19世紀、東條の言葉でいう〈近代〉から20世紀、〈現代〉への推転についての見通しも提示している。すなわち、〈近代〉は家や同職集団を構成単位とする複層的市民社会を基盤としているのに対して、〈現代〉は個人を基礎単位とする同質的市民社会を基盤としている、というのである。そして家や集団に埋没した〈近代〉人とは異なり、〈現代〉人はヘゲモニーとしての国家を内面化している、というわけである。
 東條によれば〈近代〉においては財産保有の主体(東條の用語法でいえば「個人」)は主として「家」ならびに同職集団であり、その財産はウェーバー的な意味での家産、あるいは恒産であって資本ではない。〈近代〉にあっては国家も資本も複層的市民社会に外接するのみであって、その内部、つまり生産過程と生活過程に浸透しない。ちょうどそれはマルクスのいう意味での「資本による生産過程の形式的包摂」である。それに対して〈現代〉においては財産所有の主体は普通の意味での個人となり、かつその財産はそれ自体で資本となり、生産過程を実質的に包摂し、そこに内在する。生産主体は家や同職集団ではなく、資本家的経営となる。国家もまた個人を基本単位とし、国民として動員する。


 この、身分社会として市民社会を理解する、というスタンスは、同世代以降の、現状分析を主務とする研究者たちにも共有されている。野村正實、大沢真理、禹宗杬などははっきりと日本の雇用慣行と労働市場を一種の身分制として把握している。もちろんそれは市場経済と矛盾するものではない。近代的雇用関係が、もともと身分関係であると同時に契約関係なのだ。


 そしておそらく、森による個別的労使関係=雇用関係という対象の発見、そして身分関係としての雇用関係への気づきは、中西の経営単位の分析のすすめと相まって、研究の焦点をますます、かつての「職場」や「組合」から企業へと、そして労使関係から、経営を主体とする人事労務管理へとシフトさせていくことになる。

追記(3月11日)

 中西洋、森建資の主従法と雇用関係についての議論は、今日のスタンダードな経済学によっても十分に理解可能である。加藤栄一は中西らの議論については、それを「労働力商品の無理」として解釈したが、それは宇野理論の論理というよりはむしろ不完全情報の経済学に近いものであった。
 今日のスタンダードなミクロ経済理論の手法で雇用関係の分析がなされる場合、まず持ち出されるのは、それを本人―代理人関係という情報の非対称性をはらんだ関係として定式化する分析である。「本人」の側では「代理人」の性質・行動について不十分な情報しか得られないために、「本人」が安心して「代理人」に業務委託を遂行させるためには、この情報ギャップを償うための特段の仕組みが必要となる、というわけだ。
 スタンダードな議論においては、「代理人」の性質についての無知にかかわる「逆選択」と、代理人の行動の観察・統制の困難にかかわる「モラル・ハザード」という概念装置が使い分けられる。
 後者を用いた雇用関係、スポット市場ではなく、「内部労働市場」につながる長期的安定的取引関係の説明のための議論がよく知られた「効率賃金仮説」であるが、通常そこでは、被雇用者がまじめに働くためのインセンティブとして、市場水準より高賃金での雇用の継続、不真面目な場合の制裁として解雇、というスキームが提示される。しかしながら中西や森が提示する19世紀イギリスの主従法の世界では、制裁の中に解雇以外のオプション――身体刑を含む刑事罰、雇主による体罰を含む直接的な懲戒――が存在している、というわけである。
 「経済外的強制」と「安定的関係の継続」とは、ルーマン風にいえば「機能的に等価」で経済学風にいえば互いに代替可能な選択肢であるというわけだ。


日本労使関係史論

日本労使関係史論

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

製糸同盟の女工登録制度―日本近代の変容と女工の「人格」

製糸同盟の女工登録制度―日本近代の変容と女工の「人格」

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

「身分の取引」と日本の雇用慣行―国鉄の事例分析

「身分の取引」と日本の雇用慣行―国鉄の事例分析