「労使関係論」とは何だったのか(16)

しかし注意すべきは、講座派、労農派いずれの立場も、日本資本主義を複合的な構造をもった――複数のサブシステムからなる――単一のシステムとみなしたうえで、それらサブシステムのうちのどれか一つでもって、システム全体を「代表」させようとしているところがよく考えてみれば悩ましいところである。宇野派の場合には、先端部門たる重工業セクターこそが日本資本主義全体の枢軸をなすのは自明だ。(それにしても、なぜ自明なのか? つまりそれがマルクス主義進歩史観、ということなのだろうが。)それに対して講座派の場合にはある種のブレがみられる。すなわち一方では重工業部門こそが技術的、生産力的な先端として、また革命主体たるべきプロレタリアートを輩出する場として、山田盛太郎の言葉では「旋回基軸」として押さえられていたが、他方では農村こそが日本資本主義の「基底」なることもまた強調されていた。興味深いのは、もっとも典型的に「資本主義的」セクターであるはずの軽工業部門は、いずれにとっても「典型」「中軸」ではなかったということだ。
もちろんここで講座派における曖昧さを責めて、宇野派の単純明快さを称揚すれば話はすむ、とは思えない。そこでまず、複合的構造をそのまま虚心に描き出すことでは宇野派も講座派も満足せず、「管制高地」を設定せずにはいられなかったのはなぜか、について考えてみよう。言うまでもなくそれはまず何より実践的な問題関心から、つまりは日本資本主義を変革する際に手をつけるべきその中枢、あるいは「弱い環」はどこかということである。重工業部門は技術的先端であり、国家にとっての戦略的拠点であり、なおかつ革命の前衛たるべきプロレタリアートの揺籃として特権的な位置づけを両サイドから受けた。しかしなら講座派の理解によれば、総体としては完全な資本主義社会として完成しておらず、半封建的な絶対主義国家である日本のその「基底」をなすのは農村社会とそこにおける家父長制であり、その家父長制は天皇制支配の基底であると同時に、また先進的な重工業大経営の労務管理をもまた支配していた。こう考えると、「管制高地」のロジックのシステム全体への浸透力、支配力についての解釈としては、「なぜそのセクターの論理がシステム全体を代表すると言えるのか」という疑問への答えとしては、講座派の方が説得力がある、と言えなくもない。これに加えて、講座派(山田)の論理に従うならば「基底」としての農村の存在、そこにおける賃金水準の低さ(「家計補充的」)が、他セクターの賃金水準にとっても死荷重として作用しており、とりわけ完全競争に近い軽工業セクターの賃金水準をストレートに規定している。


 あるいは身も蓋もなく言えば以下のとおりである。実証分析のレベルに降りるならばもっとデリケートな議論が展開されるとはいえ、その根本発想のレベルにおいては、宇野派の場合には「生産力面、技術面ないしビジネスモデルにおける先端セクターこそが、当該資本主義システムの「管制高地」である」という発想が抜きがたくある。先端セクターこそ生産性が高く、資本ベースで見た利益率とか、あるいは賃金水準といったより「市場経済」的な指標の面でもリーディングなポジションにあり、他セクターもまたその水準においつくか、淘汰されて消滅するか、あるいは国家を介した再分配によって保護されるか、というかたちで先端セクターの影響を受ける。これに対して講座派の場合は、結局のところ政治経済学、国家論なのだ。市場原理はその中では副次的な意義しか持たない。


 さてその上で論点を戦後の社会政策・労働問題(労働経済)研究に戻すとしよう。戦前に大河内一男によって社会政策の中心課題は労働政策とされ、その政策対象として、資本制経済化での労働力――資本家的経営に雇用される賃労働が発見される。そして政策主体として呼び出されたのは大河内の言葉で言うところの「社会的総資本」、今日風に言い換えれば資本制システムそのもの、実質的には政策主体としての資本制国家である。
 戦後における「社会政策から労働経済へ」の転回は、学の主人公を政策主体たる国家から政策対象たる労働者へと転換しようというモチーフによって動かされている。こうした問題意識は経済学の歴史に鑑みれば至極正統的なものであることは言うまでもない。経済学はそもそも政策科学として出発し、政策対象としての経済の自律性を発見したのであるから。
 しかしながら既に見たように、賃労働の市場はきわめて不完全であり、それを補うための政策的対応がどうしても必要となる。ただし戦後の労働経済学は、そうした政策の担い手を大河内流の「総資本」(=国家)よりもむしろ労働者の自主的結社としての労働組合に求めたのである。
 ただし戦後の再建期における日本経済、のみならず戦前に遡って見たときにも目立つのはそうした政策の担い手としての労働組合の存在感の希薄さである。戦前期には労働組合はついに日本社会、経済秩序の中に確固たる地歩を占めることができなかったし、戦後においても企業レベルを組織の基本単位とした。そうした実態は戦後初期の労働経済(賃労働)論において、まずは講座派的な問題の立て方を優越させることとなった。
 しかしながら、若い戦後世代の研究者たちは講座派のアプローチに飽き足らず、戦前労農派の鬼子というべき宇野派の段階論アプローチにむしろ親近感を覚えていた。なぜか? 
 いくつかの理由が考えられる。まず第一に、戦後世代が本格的に研究キャリアを開始したときには、既に日本経済の再建は軌道に乗り、高度成長の準備段階にはいっていたため、講座派的に日本経済を「反封建的」と特徴づけるやり方のリアリティが完全に失われていた。しかしながらこの解釈には欠点がある。仮に戦後日本が、宇野派にリアリティを帯びさせる近代的な経済に変貌を遂げていたとしても、戦前においては講座派的な構図がむしろ当てはまっていた可能性がある。「講座派か宇野派か」の選択は歴史解釈にまで立ち入ったものでなければならない。
 第二に、講座派は政治主義的に過ぎて、経済理論的な基礎付けが希薄であり、都合の悪いことはすべて国家権力や伝統のせいにしてしまえるので、科学的に問題がある。(これは日本共産党の問題をカッコに括ってもなお言えることである。「構造改革派」――のちの「市民社会派」もまた講座派の系譜に立つことを忘れてはならない。)これに対して宇野派は一応すべてを可能な限り経済学的に論じようとする傾向がある。
 後に情報や不確実性を射程に入れ、制度や慣行を取り扱えるようになった新古典派経済学の流れのなかから、講座派的問題意識への理解者が登場してくるのは皮肉なことである。
 ついでながら、なぜ(広義の)マルクス経済学――非・近代経済学がベースとなったのか、についても少し考えておかねばならない。近代経済学の手法による実証的労働研究は、戦後日本では主として一橋大学慶應義塾大学を拠点として展開されていた。また戦前以来の社会政策学の伝統もまたこれらの大学には存在していた。東京大学の特徴はむしろ、近代経済学的労働研究の不在にこそある。東京大学近代経済学が不在だったのではない。東大の近代経済学が過度に理論に偏り、実証研究が不在だったのである。それは労働に限ったことではなく、財政、金融等の「応用経済学」全般に当てはまる問題であった。