「労使関係論」とは何だったのか(17)

 (承前)
 更にはもちろん、この時期にはいまだ新古典派経済学が未成熟で、ようやく市場経済一般均衡理論が完成を迎えつつある時代であり、制度や組織、慣行を正面から扱う理論がまだ登場していなかったことも重要である。労働、農業、財政金融といった領域の研究者のボキャブラリーは、マルクス派もノン・マルクス派も相当に共通であった。しかしながら大部分の近代経済学系の研究者は、制度や慣行を扱う理論的なボキャブラリーを持たなかったのであり、「段階論」という(擬似)歴史理論を備えていたマルクス経済学には、この点一定の優位性があった(ように見えた)。それゆえに経済における複合的構造や歴史的変移、更に政治と経済の連関を問題化しようとする者は、マルクス経済学の方に引き付けられざるを得ないという時代だったのである。社会政策学を拒絶して労働経済学に転じようとしても、労働政策を論じないわけにはいかない。むしろかつてとは違い、労働組合、賃労働者自身を政策の主体として位置づけなおす、今日的な言葉で言えば「労働政治(学)」的アプローチが要請される。
 まとめるならば、恣意的な政治主義を回避するために講座派より宇野派が好まれ、それでもなお政治を射程に収めるために近代経済学よりマルクス派が好まれたというわけである。


 引き続き東大「氏原教室」に焦点を当てるならば、「社会政策から労働経済へ」という、一見隅谷や氏原によって主導された、しかしながら実は大河内の「社会政策の経済理論」という問題設定それ自体によって運命付けられていた移行は、その後の世代に何をもたらしたのか? 
 社会保障、貧困・生活問題への関心の後退も重要な問題であろうが、それは措いておこう。30年代生まれの戦後世代の研究者たちの志向性は大雑把に言って二つに分かれる。一つの方向は「社会政策から労働経済へ」という転換を基本的には肯定した上で、労働経済分析の基本を労働市場論とみなし、「応用経済学」としての労働経済学を志向して実態調査に取り組もうとする研究者たち。大雑把に言えば氏原の調査グループの番頭格だった高梨昌に、農業経済学から転向してきた小林謙一、更に小池和男、神代和欣などである。非常に大雑把に言えば、この潮流が松島静雄の流れを汲む産業社会学、そして慶応大学・一橋大学から勃興してきた近代経済学的な労働市場の計量分析といった潮流と合流しつつ、今日における労働研究のひとつの主流を形作ることになっている。この中で理論的指導者――というわけでは必ずしもないが、良くも悪くも単純明快な説得力で隣接分野、社会科学全般における存在感を発揮したのは小池である。
 これに対して、この傾向に対して真っ向から対立して、「応用経済学」としての労働経済学的実態調査の累積を「アナーキー」と断じ、むしろ社会政策学的問題関心を正統とみなして、その資本主義国家論への止揚を志向していたのが中西洋であり、同様の問題意識を共有していたのが徳永重良、栗田健、戸塚秀夫、兵藤訢らであった。政治経済学的志向が強かった彼らは、同時代日本の実態調査よりもまずは外国研究や歴史研究に取り組んだ。「氏原教室」人脈の外でも、熊沢誠、高橋克嘉といった研究者たちがこれに呼応していた。
 非常に乱暴に言えば、この分裂は、多少は政治的な志向性と関係してもいたが、基本的には「実証」志向と「理論」志向への分離であった。ただしここで重要なことは、「理論」研究がかつてのマルクス経済学のそれとも、また「近代経済学」のそれとも異なり、モデル構築という形をとらなかったこと――マルクス経済学的に言えば「段階論」、つまり歴史研究によって現代の位置を測定するという作業となり、その歴史研究自体、ことに日本については――そして後には外国研究についても――一次資料を駆使した、語の正確な意味での「実証研究」であったということである。
 「実態調査」中心の研究者たちが理論を無視していたわけではない。小池和男などはどちらかといえばむしろ「理論家」と呼ぶべき資質の持ち主であろう。「理論」志向の歴史・外国研究者たちが実態調査を軽視していたわけでもない。ことに戸塚、兵藤、徳永、中西は精力的に実態調査を行っている。ただしこの二つの潮流においては、念頭に置かれていた「理論」が異なっていた。同じくマルクス経済学やドイツ社会政策学、あるいはウェッブ産業民主主義論をベースとしてはいたが、「実態調査」志向の研究者たちは「政治経済学」的側面をカッコに入れ、産業・企業レベルに照準した、狭い意味での「経済学」、場合によっては「経営学」的な労働研究に沈潜していったのに対して、歴史研究・外国研究のグループはむしろ「政治経済学」を――後に政治学のフィールドでは「労働政治」と呼ばれるであろう研究を――志向し続けた。端的にそれが現れたのは、兵藤も寄稿している戸塚・徳永の77年の共編著『現代労働問題』(有斐閣)である。本書は第一次世界大戦期から石油危機までの半世紀余りの先進諸国の労使関係と労働政治についての比較研究であり、背後仮説としては「国家独占資本主義」論――加藤栄一バージョンに近く、のちの「フォーディズム」論、「ケインズ主義的福祉国家」論とほとんど同趣旨――を踏まえていた。
 そもそも実際問題としてはどちらにとっても、この時代には実証研究の便利な道具となるべき「理論」は、仮に「フォーマルモデル」を「理論」と呼ぶのであれば、存在しなかった。ベッカーの人的資本理論が生まれるのはようやく1960年代半ばである。制度学派の「内部労働市場」論はフォーマルモデルではない。ゲーム理論的な企業組織論の成立もようやく70年代の出来事である。いわんや政治経済学のフォーマルモデルは、いまだ十分に確立しているとは言いがたい。


 それにしても求められていた「理論」とは何だったのか? ここで60年代後半、「氏原教室」末期の時代に大学院で中西らの後輩であった下田平裕身の距離をおいた証言を引いておこう。

 先輩たちには、「社会政策の本質」論争以来の「国家論」への興味をなおも引きずっている人たちと、徹底してフィールドにおける労働問題に関心を集中する人たちの二種があり、後から来た私は何となく両方の議論を耳にするという側面があった。前者の典型は中西洋さんであり、兵藤さん、戸塚さんがこちらに傾斜する。こちらのグループは、現時点での実態調査より歴史分析に関心があったようだ。後者では、高梨、小林、山本、小池さんたちが実態調査を中心とする研究活動を展開していた。先輩たちが多少ともこだわりを持ち続けた、かつての社会政策論争などには、まったく興味がなかったが、国家という存在―<労働者にとって、国家という存在とは何なのか>という問題に大きな関心があった。当時、「大河内理論」なるものはすっかり下火になり、氏原先生の労働市場分析重視の発想が優勢になっていたから、国家の役割は市場原理の補完的な役割にすぎないと考える傾向が強かった。そのなかで、先輩の1人の中西さんだけは「大河内理論」なるものを再援護するような形で抽象的な国家論を展開しようとしていたが、アナクロニズムの印象があってよく理解できなかった。

(下田平裕身「<書き散らかされたもの>が描く軌跡 : <個>と<社会>をつなぐ不確かな環を求めて : <調査>という営みにこだわって」『信州大学経済学論集』第54号(2006年)、13-14頁)


 これに対して、なぜ「国家論」か、なぜ「歴史分析」か、についての中西自身の言葉を聞こう。

 勿論、「理論」研究者が「実証」を意に介さなかったわけではない。否むしろ、主観的には積極的に「実証」を志したといっても間違いではない。唯しかし、彼等はそこに彼等の「理論」の普遍的な正しさの“証し”をみることに没頭して、「実証」研究の最大の意義が「理論」の限界を確定するところにあること、そしてそのことを通して、その「理論」の有効性を計量しつつ、同時に新「理論」形成のための契機を発見するところにあることをほとんど理解しなかった。また他方、「実証」主義者の側も「理論」について発言することを避けてきたわけではない。 むしろ「実態調査」にとって前提さるべき「理論仮説」「作業仮説」等々がいかなるものであるかが、はてしもなく滔々と論じられて来たのであった。だが、何故かこれらの人々にとっての「理論」は、「実証」研究に不可欠な「理論仮説」〔「部分理論」、「中規模理論」〕どまりであって、その「理論仮説」なるものが分離抽出されてくる母胎としての“大理論”〔「グランド・セオリー」〕そのものはその現存が強調されればされる程かえって無限のかなたに消えうせてゆくのであった。いま少し心情的に理解すれば、こうした「実証」派グループにとっては、「グランド・セオリー」と「実証」研究を結びつけようとする態度そのものが、とりもなおきず粗野で前近代的な多少とも“神がかりな”振舞いに他ならず、ソフィスティケートされた近代人にしてはじめて身につけうる経験主義科学のふんい気を根底からそこなう代物なのであった。こうした研究の文字通り“不毛な”分裂は、その経過のうちにさしあたりは「理論」派に対する「実証」派の優勢として収束されていくことになったのであるが、その点はとりたてていうべき程の意義をもつものではない。社会科学は、その本性において、“教義学”的であるよりははるかに“経験科学”的であるといって間違いないからである。
 だが、問題はそこでは終らない。いまや優位に立った「実証」派自身が上の“原罪”をその一身に担わねばならない立場におかれたのである。その内部で、「外国研究」が「日本研究」から分化していった場合にも、その背後には、単に技術的な分業という以上に、大「理論」の不在状況にいかに立ちむかうかという方法的アプローチの分裂がひめられていたのである。だが、上述のような「実証」派に本来的な体質が根本的に反省されることなしには、こうした“分業”の成果を協業へむけて集約することとはなりえない。結局のところこの分化も、あれこれの国の労資関係はそれぞれにあれこれの特質を有するという常識的な比較類型的方法意識を原理的に超え出ることはできなかったのである。

(中西洋『増補・日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東京大学出版会、1982年、489-490頁)


 中西が求める「国家論」とは、「「実証」研究に不可欠な「理論仮説」……が分離抽出されてくる母胎としての“大理論”」「グランド・セオリー」であって、それ自体が個別的な実証研究によってテストされるようなものではない。むしろそれは「メタ理論」とでもいうべきものだろう。ただし「メタ理論」とは言ってもそれは個別の「中範囲の理論」を方法論的に吟味する認識論ベースの「社会の理論の理論」に留まるものではなく、現実存在としての社会経済のメカニズムについての存在論ベースの、それ自体もまた「社会の理論」である。
 では、そのような「グランド・セオリー」「メタ理論」と「歴史分析」とはどのような関係にあるのだろうか? ここで重要なのは、中西にとって歴史研究とは、単なる「過去を対象とした実証研究」ではないということである。(上記引用における「外国研究」なる表現にも注意していただきたい。)

 戦後の実証主義的な研究の流れが、その第2期において、主として“実態調査”に依拠するグループと“歴史研究”に集中するグループとに分化していった点を、単に、一方は現在の事実に、他方は過去の事実に、関心を寄せたものとして、その意味でこれを単なる分業として理解する考え方や、“実態調査”グループの側からする自己規定の如くに、“第1次資料を自ら創り出す実証”とその他の実証という分類をもって何事か重大な区別立てをなしえたかに考える理解が広く行われてきた(中略)。しかしながら、“実態調査”と“歴史研究”とが社会科学の認識の深化にかかわる意義の相違は、決して叙上の如き浅薄なものではない。それは、前者の方法にもとづく事実認識が研究主体およびその同時代人の問題関心の範囲を原則として超ええないという限界をもつ――裏返していえば、研究主体と同時代人との相互理解を深化させうるという効能は有する――のに対して、後者は、彼等のそれとはしばしば全く隔絶した主体の問題関心と行動様式を明らかにすることによって、研究主体とその時代の認識構造の相対性・一面性を認識にもち来たらし、それを根底から改変する力をもつ点にその意義があるとみなければならない。

(同上書、179-180頁)


 言うまでもなく、ここで重要なのは「実態調査」と「歴史研究」の形式的な対比ではない。「事実認識が研究主体およびその同時代人の問題関心の範囲を原則として超ええないという限界をもつ」研究と、「彼等のそれとはしばしば全く隔絶した主体の問題関心と行動様式を明らかにすることによって、研究主体とその時代の認識構造の相対性・一面性を認識にもち来たらし、それを根底から改変する力をもつ」研究との対比である。中西がここで「実態調査」を「事実認識が研究主体およびその同時代人の問題関心の範囲を原則として超ええないという限界をもつ」としているのは、ここで言う「実態調査」の対象があくまでも日本の経済社会、労働現場であり、研究主体と研究対象とが「同時代人」、同じ社会に属し常識を共有していると想定されているからである。これに対して「歴史研究」に期待されている相対化の力は、研究主体と研究対象との間にある断絶、非対称性に由来する。
 となれば中西の考える「歴史研究」「外国研究」は「常識的な比較類型的方法意識」ではなく、むしろフーコー的な異化を目指すものであることは明らかである。そしてそうした研究は、ローカルな「実態調査」を導く「中範囲の理論」を生み出すマトリクスとしての「大「理論」の不在状況」に立ち向かうためのものであった。


 ここで少し落ち着いて考えてみよう。中西の「実態調査」と「歴史研究」の二分法を真に受けすぎてはならない。素直に考えてみれば、日本人が日本社会において日本人相手に行う「実態調査」が、同じ日本人として既に共有している常識を再確認するだけの作業に終わってしまう危険はもちろん大きいが、常にそうならざるを得ないわけではない。研究主体と調査対象が「同じ日本人」として「同じ常識を共有している」かどうか自体、実は調べてみなければわからないことだろう。更に研究主体と調査対象が同じ常識を共有していたとしても、そうした「常識」はしばしば錯誤や欠落を含んでいるはずであり、克明な実態調査の結果発見された思わぬ事実が、そうした「常識」を覆す可能性は小さくはない。また逆に「歴史研究」においても、人々の間に既存の「常識」として共有された、共同体の来歴についての「物語」を上塗りし強化するだけに終わってしまう危険は、常につきまとう。
 社会科学の対象には大雑把に言って二つの水準がある。ひとつは「客観的事実」の水準であり、いまひとつは「共同主観的認識」の水準である。社会科学の第一の任務は、社会についての「客観的事実」の解明であるが、そこから派生する第二次的な任務として、そうした研究成果を一般社会の「共同主観的認識」にフィードバックしそれを修正すること、がある。ただし社会科学者もまた社会の構成員であり、その認識の地平もまた自らが属する社会の「共同主観的認識」、すなわち「常識」に制約されている。それゆえ社会科学は「客観的事実」だけではなく、人々の「常識」をもまた分析の対象とする。
 ちなみに経済学は「客観的事実」の水準を、すなわち「自覚していようがいまいが、現実に人々はどのように行動しているのか」を解明することを第一目標としてきた。それに対して社会学は「共同主観的認識」の水準を、「それもまた一個の「事実」である」として重視する。そして中西によれば政策(学)とは、「主観的認識に基く現実への介入」として、この二つの水準をブリッジするものと位置づけられている。
 中西が憂慮している「実態調査」の堕落とは要するに、社会科学的探究が「常識」に埋没してしまうことに他ならず、それは「実態調査」にとって避けがたい運命というわけでもない一方で、「歴史研究」や「外国(異文化)研究」ならそれを免れているというわけでもない。ただし自社会の「実態調査」においては、知られざる「客観的事実」の発見が研究者の、ひいては社会全体の「常識」を揺るがす可能性はあるものの、それはまさに知られざる、あるいは(知られていたとしてもその意味が理解されていなかった)無意識の水準の事実でなければならない。こうした「事実」は調査対象自身も気づいていない水準にあり、彼らが研究主体にそれについて意識して教えてくれることはない。それに対して「歴史研究」「外国(異文化)研究」は、(もちろん「事実」の水準で新たな知見を与えてくれることは言うまでもないが)別の異なる「常識」、別の「共同主観的認識」に直接ぶつかるチャンスを研究主体に与えてくれる可能性が高い――とまあ、大体このように中西は考えているのだろう。
 ただここで注意すべきことには、そうした「歴史研究」「外国研究」は「大理論の不在」を償うためになされるものと意識されている。もちろん個々の特定の「歴史研究」「外国研究」が「グランド・セオリー」の代替物になるわけではない。個別の実証研究――「常識」に埋没する危険のより大きい「実態調査」が中心だが、「歴史研究」「外国研究」も含まれる、と考えるべきである――を支える「中範囲の理論」「作業仮説」を批判的に吟味する役目が、総体としての「歴史研究」「外国研究」のネットワークに与えられている。
 しかしここでネットワークの役目が個別の実証研究とその作業仮説の批判的吟味であるとして、それはまた同時に、そうした作業仮説を新たに生み出す「母胎」でもあるのだろうか? 中西はこの辺については主題的に論じていないが、我々としては「そうでもあり、またそうでもない」というべきであろう。具体的に見れば個々の実証研究を導く「中範囲の理論」は、「グランド・セオリー」が不在となれば研究主体の「思いつき」によって生み出され、その正当性が事後的にネットワークによってチェックされる、というものとなろう。実際大河内一男は、調査のための仮説は基本的に「思いつき」によると明言したという。
 しかしそのような状況を、中西ならば「アナーキー」と呼んだに違いない。中西に言わせれば、「氏原教室」の「実態調査」は「労働市場論」という枠組を共有していたにもかかわらず、所詮は「アナーキー」なのだ。いわんや、それ以上に錯綜した「歴史研究」「外国研究」のネットワークをや。


 そもそも「グランド・セオリー」といったときに人が何を意識するのか、はさまざまである。おそらくは戦後しばらくから高度成長の頃までは、日本労働問題研究の文脈でこの語が語られるときは、山田『分析』に比肩するかそれを凌駕するような「日本資本主義(総)論」であり、労働研究はあるべきそうした日本資本主義論の一部分――もちろん、『分析』はもとよりマルクス資本論』に従っても、資本主義の核心たる「資本―賃労働関係」を分析しているはずの労働研究者たちの自負としては、最も重要な「部分」ではあるとしても――として統合さるべきものとして想定されていたことが多かったように思われる。
 「応用経済学」に対する「経済学原理論」の意味で「グランド・セオリー」について論じられることはほとんどなかったのではないか。たとえば中西は宇野学派の三段階論について「宇野の経済学体系の核心に位置するのは、抽象的なモデルを組み立てる「原理論」ではなく、それを基準に具体的な歴史分析のための「中範囲の理論」を組み立てる「段階論」である」と論じた。実際、山田の『分析』よりもむしろ宇野理論に範を求める労働研究者の場合にも、準拠枠とされたのは「段階論」であったわけで、宇野理論の枠組みを受け入れたとしても「グランド・セオリー」はやはり原理論ではなく、原理論―段階論―現状分析の三段階からなる、経済学の全体系がそれに対応することになるはずだ。
 中西の場合には、大河内の最良の可能性をサルベージし再構成する「資本主義国家論」が「グランド・セオリー」にあたる。ただ中西の場合にはそれは具体的には「労働・社会政策の比較法制史」とでもいうべき作業として実現をみた。『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』第3編において、後期中世から19世紀後半までの英国(イングランド)の労働・社会政策の発展過程が描かれ、更にそれは『〈賃金〉・〈職業=労働組合〉・〈国家〉の理論』においては日英仏独伊の多国間比較へと拡張されたそれは、歴史分析のための極めて便利な参照枠ではあるが、もちろんシミュレーションの道具としてのフォーマル・モデルではない。
 すなわち日本の労働問題研究においてその不在が嘆かれていた「グランド・セオリー」とは、宇野派の原理論やあるいは新古典派一般均衡理論のような抽象的汎用理論のことではない。もっと具体的な「トータル・ヴィジョン」とでも呼ぶべきものである。


現代労働問題―労資関係の歴史的動態と構造 (有斐閣大学双書)

現代労働問題―労資関係の歴史的動態と構造 (有斐閣大学双書)