田島先生「左翼の言説戦略」

http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50505045.html
『読む哲学事典』「保守主義と左翼」がよい論点を提起しているだけに、気になるエントリなのだが……ハイデガーの「本来性」の批判的検討をしている辺りまではよいのだが……福井総裁の話を始めてからがいけません。

一般の人々は、日銀総裁の行動に疑惑を持ちながらも、テクニカルな問題にまで立ち入って判断するのが難しい。しかし、それが法規違反、ないしは日銀の内規違反とまで言えるかどうかにかかわらず、「敵」を鮮明に指定することによって、一般の人々を政治的に動員することが可能になるのである。政治的結集には、テクニカルな厳密さよりも、迅速さと明確さが必要なのは言うまでもない。


 この辺まではいいです。それがプラグマティズムというものです。クルーグマンもそのような意味において、マイケル・ムーアの『華氏911度』を肯定した。しかし、

 権力エリートたちが、一般にアクセスできない情報に、合法・非合法ぎりぎりの所で、たやすくアクセスでき(たとえば、ヒルズの私的パーティとか、軽井沢のお隣づきあいとか、東大の同窓会とか…)、それによって巨額の利益を得る事が出来るという事実が、それを小難しい議論で擁護しようとする論客の議論と密かに持つリンクを、暴きださねばならない。つまり、これらの論客が「日本型エリート秘密クラブ」へ喜んで招き入れられる見返りとして、この秘密クラブのメンバーを擁護するために、いざとなればその専門的知識を駆使するという黙契を結んでいることこそが、彼らの小ざかしい議論の背景にあることを、暴露せねばならないのである。


 これはよろしくない。
 よいですか。暴露しなきゃならんような重大な秘密など、基本的な報道の自由も、学問の自由も存在しており、統計データベースの質も保たれているいる日本の、それも経済政策において、ありはしません。
 ですから、

 そんなところで、あたかも理論的に厳密さを装った「論客」の屁理屈に付き合って反論しているだけでは、常に後れを取ることになるだろう。彼らは、法律家とか経済学者といった麗々しい肩書きで、レイマンを威圧するだけが取り得の小難しい議論を展開するが、結論はそんな議論によって与えられるのではなく、それ以前に彼らの「エリート秘密クラブ」からの暗黙の要請で、初めから決まっているからである。


なんてことはありません。以前クルーグマンのコラム集へのレビューで書いたことを再掲します。

「既によく指摘され彼自身も認めるところの、本書の方法論の価値、「ワシントン・サークル」(日本でいえば「記者クラブ的ジャーナリズム」か?)の外にいるにもかかわらず、ではなく、その外にいるからこそ、つまりマル秘のニュースソース、ディープスロートからの極秘情報なんかに頼らないからこそ、真実を的確に見抜けるのだということは、どれほど強調しても強調し足りない。ホント日本の新聞の政治経済記事なんか見てると「分析」の欠如にほとほと絶望する。
 そう言えばかつての旧ソ連研究、クレムリノロジ―の世界でも似たような逸話があったそうな。クレムリンの密室政治に関する予言をバリバリ的中させてきたとある碩学が「あなたのニュースソースは?」と問われて「プラウダ」とこたえたとか。」

佐藤優のようなインテリジェンス関係者も、近年はしつこいほど「重要なのは公開情報だ」と繰り返しているじゃないですか。

 そんな時、ぐるになったこうした連中の実存形式から、彼らの言説の卑しい動機を暴露する事が出来れば、衒学的な議論の細部に幻惑されることなく、人々は己れ自身の不正感覚に基づいて「敵」を討つ事が出来るだろう。


 もちろんこれは間違っています。暴露されるものがたかだか「卑しい動機」程度のものであるならば、そんなものに価値はありません。また同様に、レイマンの「不正感覚」は、それがただ単に動員されただけのものであるならば、全く信頼に足りません。動員された大衆の「不正感覚」は、啓蒙され、陶冶されねばなりません。「卑しい動機」以上のものを見抜くために。

 こうした暴露と批判が、日銀の権威を損なうどころか、それを維持するために不可欠であること、市場に日銀の真の権威を取り戻すためにも、総裁を辞任に追い込む事が必要である事がわかるだろう。日銀という公共の遺産を守るためにも、公共的な日銀批判が必要なのだ。裁判に対する公衆の批判が、裁判の権威を損なうどころか、その権威の源泉であるようなものである。これこそ、左翼の論理である。「祖国」(ポリス)への非合理的コミットメントこそが、「祖国」批判の前提なのであり、また逆に「祖国」への真摯な批判こそが、祖国を防衛するのだ。」


 この記述自体をとってみれば、そこで言われていることに異論のあろうはずはありません――もちろんそれが適切な暴露と批判であるならば。しかしその批判の根拠が、皮相なモラリズムに終わってしまっていては、話になりません。