左翼・右翼・保守主義(承前)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060712/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060723/p1

                                              • -

 「エクソダス」とは、その歴史的な範例は「出エジプト記」に求められることが多いわけであるが、圧制その他の抑圧から解放されるためにある国家、地域、居住領域を離れることである。以下では、この「エクソダス」の構造について考えることにしよう。
 共同体に「亀裂」「危機」を見出した左翼が、しかしその「亀裂」「危機」の深刻さについて共同体の他のメンバーを説得することも、批判的な討論に入ることもできず、非和解的な対立に入ってしまったらどうなるか? そのとき共同体は分裂し、左翼以外の人々は「右翼」と化し、左翼を「非国民」呼ばわりするだろう。そこから事態はどのように展開するだろうか? 
 分裂し、共同性を失ったままでの「冷たい戦争」的平和共存、という大いにありそうな可能性(これについては後に立ち戻る)についてはさておく。このとき左翼が自ら元同胞たる右翼を、そして共同体を見捨てて立ち去り、新天地を求めるならば、それが語の伝統的な意味でのエクソダスである。これに対して、右翼が左翼=非国民に対して攻撃的な排除の挙に出るならば、これは「追放」である。
 しかし「エクソダス」であれ「追放」であれ、そこでは当然、まつろわぬ左翼=非国民にとって脱出/追放先となる「外部」の存在が前提とされている。
 ロック/ルソー版の自然状態論が想定するように、共同体の外に自然状態があり、やろうと思えばそこでも人は生きていけるのであれば、あるいはまた、他の共同体がいくつもあり、そのどこかに身を寄せることが可能であるならば、「エクソダス」そして「追放」とは、(永井均の言うごとく「救済」ではないとしても)非和解的な対立関係に入ってしまった者同士のある種の折り合いの付け方、共存できない者たちの「すみわけ」という形での共存(共同体を同じくはしないが、それでも同じ世界のうちにとどまる)の仕方でありうる。
 ここで問題はもちろん、そのような「外部」、新天地はいつでも、誰にとっても存在しているとは限らない、ということである。しかしながらまた同時に、それは決して存在しない幻影であると限ったわけでもない。
 ロック、ルソーのイメージは、地理的、空間的な「別の場所」としての自然状態が、いかなる国家、共同体にとっても存在する、というものであった。ただし、ルソーの場合それは同時に社会の外であるのに対し、ロックの場合の「外部」はすでに無政府的秩序のもとにある市民社会(国際関係を含む)であった。つまりエクソダス/追放先としての「外部」をロック、ルソーを模範として空間的な「別の場所」として考えてみても、そこは決して隔絶した異世界、彼岸ではなく、あくまでもこの世界の一部である。そしてロックの場合には、自然法の秩序――私的所有と市場経済のネットワークを通じて、元の共同体と脱出者/追放者たちの植民地(ここでの「植民地」概念には「現地人の征服」はとりあえず含意されていないことに注意)とはつながっているし、ルソーの場合でも、生態系を通じてつながっている。
 決してこの世界の外ではないが、とりあえずは別の法、別の公共性に従う、別の共同体の構築を可能にする場所としての「外部」が存在する場合には、エクソダス/追放は、左翼の失敗と反動形成としての右翼の出現、政治に非和解的対立=潜在的内戦化という、祖国の―「危機」「亀裂」を通り越した――「解体」「分裂」を、いわば後ろ向きの形で克服する――というよりやり過ごす適切な方法である。後ろ向きではあるが、(可能な場合には)緊張が少なく、より容易な選択であることは否定できない。(やや安易なネーミングだが、公共性の危機の回避の基本戦略をこのような「脱出/追放」に求める立場を、左翼リバタリアニズムと呼ぼう。)
 しかしながらそのような意味での「外部」が存在しない場合、現存する共同体の外に別の共同体を新しく作ることが不可能、ないし著しく困難である場合には、どうなるか? その場合「エクソダス」という選択肢は無意味となる。そして「追放」、排除は、実は排除ではない別の営為――強制収容と虐殺にならざるをえない。その脅威に晒されての、強いられた行き場のない「エクソダス」とは、つまりは難民化のことである。(このような局面において「追放」をためらわない立場のことを、我々は「ファシズム」と呼ぶことがある。)


 ところでこれまでは、祖国の「危機」を見いだす者/祖国に「危機」をもたらす者としての「左翼」がもっぱら状況のリーダーシップをとるものとして描かれてきた。「保守主義」にせよ「右翼」にせよ、もっぱら「左翼」に対するリアクションとして自己形成するものとして押さえられてきた。しかし先に提示した論点、すなわち「外部」の環境による制約、というファクターを考慮に入れるならば、議論はそこにとどまらないことがわかってくる。
 田島が例にあげるイプセンの『民衆の敵』は暗示的なケースである。そこで共同体を襲う危機はとりあえずは外的なものである。しかしそれがささやかで不分明なものであり、自明ではないがゆえに、共同体の大半の人々はそれを無視し、やり過ごすことができる。そのために危機それ自体ではなく、危機を告げる主人公こそが共同体に亀裂をもたらす真の「危機」として現われてしまう。つまり危機は外的なものというよりは内的なものとして共同体によって経験される。
 だが、外部からやってくる危機があまりにも大きくはっきりしており、先覚的預言者などなくとも、ほとんど自明のこととして共同体全体に認知されてしまうようなものである場合には、どうだろうか? そのような場合には、「右翼」こそがリーダーシップをとるであろう。そして「右翼」は外なる危機=敵のみならず、共同体の内側にも敵への内通者を見出し、粛清し、排除しようとする。ここではむしろ「右翼」に対する反動形成として「左翼」が生じる可能性さえある。レーニン以来の「戦争を内乱、そして革命に転化する」という戦略は、案外こんなところに起源を持つのかもしれない。(続く)