「メモ」「人間力」「職業能力」「学校教育」

 hamachan先生や金子良事氏や労務屋さんがあれこれ言っているのを脇に見ながら。


 本田由紀は公教育の政治的側面、人格陶冶の機能を強調するある種の主流派左翼教育学を批判し、公教育における職業教育の復権を高唱するが、傍目から見れば「さすがに教育学者さんは学校がお好きですね」の一言ですませたくならないでもない。ただそう言い捨てるだけでは単なるシニシズムであり、教育社会学関連の科研費のおこぼれをいただいた上に今年は教育学部で教えさせていただいている手前、他人事のような振りはできない。


 ぼく個人が公教育の職業教育に対して果たしうる機能に対して懐疑的なのは、非常に初歩的で単細胞な経済学的推論から来る。スミスが言うのとは異なり、(実際スミスの時代とはいろいろ細かいところで我々のおかれた状況は変化してもいるから)learning by doingのみならず、職業現場を離れた教室での教育を介して、職業生活にとって有意義な技能を修得することは多少はできるだろう。しかしそのような教育を公教育として行わなければならない理由は必ずしも明確ではない。
 ひとつ考えうるのは、そうした教育の外部経済効果がかなり高い場合である。初等中等教育の公的供給の正当化のロジックは、大体こうしたものだ。
 いまひとつ考えられるのは、資本市場が不完全で、貧困者が学校教育を受けるのに必要な費用を調達できない場合。この場合には、たとえ学校教育に外部性が存在しない場合にも、学校教育への公的支援が十分に正当化されうる。ただしその費用の支弁――所得の再分配を豊かな者に受け入れさせる理由が、外部効果が存在する場合に比べて弱くなってしまうだろうが。
 以上二つの条件が当てはまらないような場合には、職業能力の練成は基本的に個人の費用負担において行われるのが筋であり、それを仮に「学校」的施設で行うとしても、それは私立学校であって構わない――というか基準的にはそうあるべきだ、ということになる。とりわけ個別具体的な技能にかかわるものであればなおさらそうなるはずだ。これは産業政策が原則的には好ましくないのと同じ理由から来る。


 ところで本田に名指しで痛罵された小玉重夫のような、主流派の左翼教育学者が近年では「シティズンシップ」といった言葉を用いて公教育の「公民教育」的、すなわちその政治的側面と全人格的陶冶の機能を改めて重視するのは、近代社会におけるデファクトに支配的な「教育」の実相――それが同時に「学習」の実相であると捉えられているのかどうか、はいまは問わない――をメリトクラシーと捉え、公教育をこの支配的潮流――「権力」と言い換えたってよい――への加担というより抵抗の拠点として捉えようとするからである。これに対して本田は、現代社会におけるデファクトに支配的な「教育」の論理はもはやテクノクラティックに個別具体的な「メリトクラシー」の段階から、全人格的な「ハイパー・メリトクラシー」に移行している、と考え、これへの抵抗の拠点として公教育を立て直すなら、むしろ古いメリトクラシーへの加担ともみえかねないにせよ、職業教育にもっと重心を寄せるべきだ、と主張しているのである。
 どちらにせよ公教育を「権力」への抵抗拠点たらしめようという善意に満ちたスタンスである。


 その上で敢えて皮肉な言い方をすれば、フーコー的であるのは表立ってフーコーや更にはアガンベンに論及する小玉よりは、どちらかというと本田の方であることは、既に紹介した「サボタージュ局」の寓話を想起していただければお分かりだろう。
 もともと主流派の左翼ヒューマニズム教育学にとって、フーコー権力論は目の上のたんこぶだったのであり、80年代まではおおっぴらに肯定的に取り上げることなどありえなかった。そして実は今日でも、教育学者に限らず「フーコー左派」は、決定的なところでフーコーを回避し続けており、彼が否定したはずの「実体的な批判の足場」をはっきりとは言葉に出さないままに温存し続けている。
 もともと主流派の左翼教育学にとっては「正しい教育を行う正しい権力」というものがありえたのである。それが現状の「正しくない権力による正しくない教育」への批判の根拠となっていた。しかしながらフーコーインパクトによってそうしたものへの信仰は解体し、人々は批判の根拠を見失った。人々にはフーコーが「本来あるべき正しい権力を知らないくせに、現状の正しくない権力をいたずらに批判するだけのニヒリスト」に見えた。それゆえフーコーは批判された。いまやフーコーはそれ自体権威となっている。しかしかつてのフーコー批判が提起した問題は解消されたわけではない。


 そういう抽象的な「正しさ」をめぐる議論から離れて、「ハイパー・メリトクラシー」という権力に対して、「職業能力中心の公教育の再建」を明確に対抗権力として――ありもしない「権力からの自由」を求めることをやめて――構想する本田の具体的なスタンスは、おそらくは小玉のそれよりもよほどフーコー的であろう。おしむらくは、それがいろいろな意味で――経済学的その他様々に実証社会科学的な意味で誤った認識に基く、不適切な政策提言からなっているらしいことだ。(続く?)