許淑娟『領域権原論 領域支配の実効性と正当性』メモ

領域権原論―領域支配の実効性と正当性

領域権原論―領域支配の実効性と正当性

目次


序 論


第1章 取得されるべき客体としての領域主権――様式論
第1節 様式論の特徴――ローターパクトの議論を手がかりとして
第2節 原始取得の法理――様式論の生成
第3節 「無主地」概念の発明――様式論の基盤と限界


第2章 行使することで取得される領域主権――「主権の表示」アプローチ
第1節 新しい領域法?――実務家の法、学者の法
第2節 「主権の表示」概念――パルマス島事件仲裁裁定
第3節 「主権の表示」の意義とその継承


第3章 「合意」に基づく領域主権――ウティ・ポシディーティス原則とeffectivites
第1節 領域法への挑戦――脱植民地化と新独立国家における領域権原
第2節 effectivites概念の沿革――ブルキナファソ=マリ事件パラダイム
第3節 国際裁判におけるeffectivites概念援用の意義
第四節 「植民地独立以降」における領域権原の基盤構造


結 語


 乱暴にまとめてしまえば、第1章で検討されるいわば「伝統的」な領域取得の法理論はベタベタの私法類推、つまり無主物を先占することによって占有取得しひいては所有権を獲得することができるのと同様に、無主地を先占、占有取得して領有することができる、という論法である。この論法のはらむ最大の問題のひとつはそれが前提とせざるを得ない「無主地」なる概念である。厳密に無人の地であればともかく、先住者が存在する土地を「無主地」呼ばわりするためには、少なくとも「そこにおける先住者たちが、その地を領有しようとする国家にとって交渉の相手とするに足る政治的な組織――要するに国家と見なしうる機構――を備えていない」という程度の前提は必要である(しそれで十分かどうかははなはだ心もとない)のであるが、何をもってして「国家」とするのかその基準は、またその判定の主体は云々、という問題が浮上してしまう。
 それに対して第2章で主題となるのは、20世紀初頭に発生した、以後の領域法におけるリーディング・ケースともいうべき「バルマス島事件」において提示された、「主権の表示」アプローチである。第1章で論じられた伝統的思考――「様式論」が、領域権原を「先占」や「継承」といったいわば「手順」とみなし、そうした必要とされる手順がきちんと踏まれているかどうか、に照準するのに対して、バルマス島仲裁ではこうした「法形式的」な権原に対していわば「その地域における主権の実効的な行使が、客観的に明らかな形で存在していること」をより重要な権限と見なす「実質的」な論法を提示した。
 だが第3章においては、第二次世界大戦以降のポストコロニアル状況下では、バルマス島パラダイムにはおさまりきれない新たな動きが表面化していることが指摘され、分析される。植民地支配からの独立以降、旧植民地の境界線を国境としてスタートした旧植民地諸国間で国境紛争が頻発し、それらの紛争裁定において浮上してきたのがウティ・ポシディーティスuti possidetis原則である。それは文字通りにとれば「現状維持」、紛争を極力回避するために、あえて当該地域の住民の意志や利害などよりも、植民地時代の行政区画等の、既存の境界画定を優先し尊重する、という論理であるが、その運用はそれほど単純ではない。著者がポストコロニアルの領域法におけるリーディング・ケースとして重視するブルキナファソ=マリ事件以降は、ウティ・ポシディーティス原則と並んでそれを補完?する「effectivites(英文文献においてもあえて仏語表記で通される)」なる概念が浮上する。これは一見したところバルマス仲裁の「主権の表示」とほとんど変わらないものであるかのように見え、実際そのように解釈運用される場合もあるが、それ自体独立の権原と解釈される「主権の表示」とは異なり、あくまでも、きわめて法形式的なウティ・ポシディーティス原則と併用されることが基本?であるところにその眼目があると解釈できる。
 私法類推に則った伝統的な「様式論」の形式的アプローチ、それに対して実効支配を重視したバルマス島仲裁の「主権の表示」アプローチのいずれも、紛争当事国の主観的な見解や意志を離れて、紛争国の具体的かつ客観的な行為――法律行為であれ実質的な政治的行為であれ――とその証拠を領域権原として見出そうという試みであった。実際こうした客観主義は、当事者間の主観的な意志の合致=合意が見られないからこその紛争であり、その司法的な裁定が求められているからある意味当然ではある。しかしそれに対して著者のいう「ブルキナファソ=マリ事件パラダイム」においてはいわば、紛争当事国以外をも含めた「国際社会による合意・承認」が領域権原として浮上しつつあるのでは、と著者は示唆している。


 実定法学としての国際法学を離れて非常に乱暴にこの議論の含意を探ってみるなら、そこには容易に自然状態論的社会契約論との同型性を見出すことができる。
 いわゆるホッブズ的自然状態は、しばしば(国際法学ではともかく)国際政治学におけるリアリズム派によって、アナーキーとしての国際社会と論理的に同型のものとして論じられたが、ここではそれは措いておこう。ここでの論脈上興味深いのはむしろ「無主物先占」の論理の典型的な体現者でもあるロックの自然状態論の方だ。しかもロックの言う所有propertyはかなり緩い概念であって、占有posessionや領土・領域territoryと明確に区別されているとは言い難いので、ここには単なる論理の同型性、アナロジー以上のものが期待できるかもしれない。
 人々は生命身体や財産の安全を互いに保障し合うために統治governmentを必要とする、という論法をホッブズは繰り出す。つまり統治なしには生命身体や財産は権利として確保されない、というのが彼の見解である。それに対してロックの場合は、自然状態は既にある種の秩序であり、自然法は絵に描いた餅ではなく、一定の実現を見ている。統治はただ、自然法の実現をより確実ならしめるために要請される。
 それゆえにホッブズにおいては、一般的な制度的枠組みとしての財産権秩序のみならず、個別的な財産権の確立と保障も、統治の確立あってのことで、統治、更にそれを確立した社会契約は、個別の財産権にとっても直接的にその根拠として解釈しうる余地があるのに対して、ロックの場合にはそうはならない。ロックにおいては、個別の財産権の直接の根拠は、個別の具体的な占有取得の営為――ロックの緩い用語法によれば労働labour――である。そうした個別の営為の根拠は、もちろんある種の合意にあるとは言えるが、それは統治を確立する明示的な社会契約というより、自然法を確立させた伝統ないし神意の受容である。
 拙著『「資本」論』『「公共性」論』ではホッブズとロックの理論構成の違いを、両者が想定する生態学的条件の相違――利用しうる資源の豊富さの相違――に基づくと解釈しうることを指摘した。すなわち、自然状態において無主物――実は具体的には「無主地」――が豊富に利用しうるという、ノージックいうところの「ロック的但し書き」要件が成り立つかどうかで、ロック的シナリオとホッブズ的シナリオのどちらが説得力を持ち得るか、が左右される、と。
 ここで国際法における領域法の展開の中に著者が見出しているのも、類似した論理ではあるまいか。そこではロック類似の「当事国単独で取得しうる領域主権」の論理の説得力を掘り崩し、ホッブズ類似の「国際社会の合意に基づく領域主権」の論理を浮上させたのは、「無主物」観念のカウンターパートとしての「無主地」観念に頼ることができなくなってきた、という事情である。ただしその違いを何がもたらしたのか、については、もはやホッブズ―ロック的な理論圏を離れて考えていかねばならない。それはもちろん生態学的な条件の変化(ホッブズとロックの相違が、どこまでそのように解釈できるか、には議論の余地があることはさておいて)によるものではなく、ポストコロニアル状況のしからしめるものである。(そしてもちろんこの問題系は、実はホッブズやロック――とりわけ北米植民地を無主物=無主地のパラダイムとなしたロックに対しても、再考を迫るものではある。)