なぜ私はローマ法にろくな素養もないのに突撃をかけようとしているのか

 自分でもよくわかっているわけではないのだがたとえば(これはあくまでも一例でしかない、自分はホームレス問題について深刻な関心を持ってはいない)、ホームレスの公園「占拠」を巡る事件において、事実としてではなく権利としての「占有」の意義が下手をすれば浮上しかねない、といった話が妙に頭の隅に引っかかっている。
 そして木庭顕先生は、あろうことか「法の核心は占有にあり」ととんでもないことをおっしゃる。世界のどこにでも普遍的にある広い意味での「法」ではなく、今日の我々の実定法、市民法と司法のシステムとそれを支える学理としての「法」の核心は、もちろん「人権」などではないがさりとて「所有」でもなく、今やほとんど死にかけてその意味も見失われている「占有」である、と。しかしそのことはローマ法、それも「所有」概念とともに爛熟期を迎えた帝政期のではなく、共和政期のそれを見なければわからない、とも先生はおっしゃる。


 それから、以前から東洋経済の担当さんには「次は『教養としての金融』をぜひ」と言われて久しいのだが、なかなか構想が熟してくれないという問題がある。
 私見では、『教養としての金融』をまじめに展開するには、ただ単に『経済学という教養』の応用編をやれば済むという問題ではない。
 経済学者がものした、金融についての教養書なら良いものはすでに結構ある。ミクロに照準した村瀬英彰のもの、マクロに徹した小野善康のもの、両方にまたがっては岩田規久男のものも池尾和人のものもある。この上何を付け加えればよいのか? 
 それらに対してあえて苦言を呈するなら、「いわゆる「金融」のミクロ的側面=信用、ファイナンスと、マクロ的側面、マネタリーエコノミックスとの関連付けの論理がよく見えない」といったところである(たとえば村瀬の入門教科書は徹底した「貨幣なき金融=信用論」である)。この点についてそれなりの議論を展開する(手本としてスティグリッツの教科書なども使えるかもしれない)ことは可能かもしれない。

金融論 (シリーズ・新エコノミクス)

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金融 第2版 (現代経済学入門)

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初歩から学ぶ金融の仕組み (放送大学叢書 13)

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現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

 ただそれだけでは、ぼくの考える『教養としての金融』には到底足りない。ぼくが必要だと考えるのは、金融の経済学だけではなく、金融の法学をも取り込んだ入門書である。すなわち、東大風に言えば民法第三「債権総論・担保物権」編、「権利の実現」論を中核とし、会社法や破産法、民事執行法などをも射程に入れた「金融法入門」と「金融経済入門」とを単に並置するのではなく有機的に連結したものである。当然かなりきちんとしたローエコの理屈も組み込まねばならない。
 たとえば素人なりに興味深いのは森田修のテキスト『債権回収法講義』における、債務者とそれを取り巻く債権者たちの織り成す関係を一個の「社会」としてそれを秩序付けようという構想である。
債権回収法講義

債権回収法講義


 正直なところそんなものが書けるやつがいるとはぼくには思えない。そのニーズを感じているやつだって、ぼくを除けば地球上にどれほどいるものやら。


 ただ、この課題をまじめに何とかしようとするならば、最先端の理論や実務に精通なんてことは到底不可能だがある程度耳学問しておくことだけではなく、歴史をかなりさかのぼっていくこともまた必要になってくるはずである。そのとき問題となるのが、やはりローマであるようだ。木庭先生によれば「所有」概念はローマ法のむしろ頽落形態において成熟してくるのだが、それ以前にすでに「契約」そして「信用」の基礎は「占有」とともにできあがっているのである。
 経済学を中心として、法律学以外の近代社会科学は、「所有」の概念は知っているが「占有」は知らない、というより両者の相違について無頓着である。カントなどは例外的に所有より占有を重視するが、彼を除いては「近世自然法論者」と呼ばれるような人々――ホッブズもロックもプーフェンドルフもルソーもみんなはいってしまうな――は大体そうであり、その系譜の上に成り立つ近代の経済学・政治学もおおむねそうだ。
 ロックの場合が一番わかりやすいのだが、彼の世界においてはまず人がおり、自然権としての所有を労働を基礎として実現し、その所有をもとに取引関係にはいる、という具合である。まずは物権としての所有権が先行し、それから取引、契約、債権債務関係が生じる、という具合だ。所有に先行して社会契約を置くホッブズの場合も、これとそれほど明確に相違したビジョンが提示されているわけではない。大体において「所有は取引に先行する、何となれば何も所有していなければそもそも取引はできないのだから」という発想が無反省に支配的だったように思われる。例外はマルクス主義であり、そこでは持てる者=資本家と持たざる者=賃労働者との取引が重要な主題となったが、「労働力商品」というアイディアのおかげで問題は隠蔽されたといってもよい。
 しかしながらそもそも、「持てる者同士の同時的・水平的交換」をスタンダードとして取引をとらえる(マルクス主義の場合も、それを市民社会における欺瞞的スタンダードととらえ、その欺瞞の裏切りとして資本=賃労働関係を位置づける)こと自体がおかしいのではないか。「持てる者と持たざる者と間の、時差を伴う・非対称交換」こそがむしろ取引のスタンダードなのではないか。その場合標準的モデルとなされるべきは、古典派経済学的な「市場で出会った商人同士の駆け引き」ではなく、かといって「資本家と労働者の不等価交換」でもなく、むしろ「金貸しと顧客」「地主と小作」ではないのか。そうした非対称関係から出発して、目指されるべき理念として「持てる者同士の同時的・水平的交換」が展望されるのではないのか。
 そう考えるならば、債務奴隷制を廃止したローマの法的思考については、ある程度きちんと付き合っておいたほうがよいであろう。木庭先生によればそこには、先述の森田先生の「社会としての債務者=債権者関係」という発想の原型が歴然とあるようであるし。(続く?)