近刊『政治の理論』あとがき
本書は基本的には書下ろしだが、作業途中の経過報告ともいうべき小論を「政治の理論のための覚書」(『明治学院大学社会学部付属研究所年報』四三号、二〇一三年)、「古典古代における「政治」と「経済」について:覚書」(『明治学院大学社会学部付属研究所年報』四四号、二〇一四年)として上梓している。その他にもインタビュー「公共圏、人々が個性を発揮できる場所」(『談』九八号、二〇一三年)で関連する論点につき触れている。
非常に乱暴に言えば本書は、二つの論点を提示しようとしたものだ。
第一に、近代における政治権力をめぐる議論の中には、ある強力な倒錯があった。すなわち「現実存在としてはお互いに大差ない平等な存在であるはずの人間たちの間に、どうして不平等が生じ、支配する側とされる側との分断、対立が生まれるのだろうか?」という問いかけが、そのおおもとの根っこの方にあって全体を規定していたように思われる。そしてそうした問題設定からする批判理論は、「自然」へ、「本来性」への回帰という志向を持つことが多かった。
しかしながら、近代政治理論の原点ともいうべき一七世紀の「社会契約」の理論家たちの議論をよく見てみれば、確かにそこにそのような倒錯の原点を見つけることはできるものの、それは基本的には誤読、誤解のなせるわざであり、当の理論家たち自身はその倒錯には陥っていなかったことがわかる。
たとえばジョン・ロック『統治二論』を見るならば、その第一部はロバート・フィルマーの『パトリアルカ』における王権神授説、王の主権の根拠をアダム以来の連綿たる継承に求める発想の批判である。第二部における水平的な市民社会からの統治権力の立ち上げは、別に自明なものではなく、いったん家父長制的、垂直的な権力を拒絶したうえで、その代替物を構想する、という形で提示されている。このような戦略は実はトマス・ホッブズの場合にも見られる。『リヴァイアサン』では、征服者による垂直的な「獲得によるコモンウェルス」といわゆる社会契約、彼の言う信約による水平的な「設立によるコモンウェルス」が対比されている。開放的かつ水平的な空間は決して本来的な「自然」ではなく、人為的に構築しなければならない(アレント流にいうところの)公共世界である、という認識は、彼らにもあったのではないか。(むろんそれは古代人の想像力と比べた場合、良くも悪くも抽象化されているが。)
現代的な政治哲学のなかでは、ニーチェを承けてドゥルーズ&ガタリが展開した権力論がこのような垂直的な力の作用を活写しており、その観点からの資本主義論はのちにマウリツィオ・ラッツァラートら(ラッツァラート『〈借金人間〉製造工場』作品社、市田良彦他『債務共和国の終焉』河出書房新社、他)に受け継がれているが、彼らが見落としているのは古典古代の共和主義というモメントであり、そのもとで、公共圏としての市場経済をとらえることに失敗している。ドゥルーズ&ガタリは古代をもっぱら専制帝国モデルで理解しており、市場経済をそこからの逃走の線としてのみ理解してしまっている。その結果彼らは資本主義の克服の展望においても、市場を公共圏として水平化し民主化する可能性などには思い及ばず、結果的にはプロレタリアートに「資本主義より速く走れ」と促すアジテーションに堕する。つまりはそれも一種の自然主義なのである(「器官なき身体」といった言葉遣いにもそれはしのばれる)。もちろん細かく見ればそうした衝動はファシズムと紙一重であることに、彼らも気づいてはいたのだが、彼らはセーフガードを用意できなかった。その果てにドゥルーズ&ガタリ派極左のいわゆる「加速主義」から、反民主主義的リバタリアン=新反動主義(八田真行「アメリカの「ネトウヨ」と「新反動主義」」http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/08/post-5739.php他参照)の同伴者となったのがニック・ランドである(Nick Land, ” The Dark Enlightenment”http://www.thedarkenlightenment.com/the-dark-enlightenment-by-nick-land/)。
二一世紀に入って一部のリバタリアンは「民主主義と自由主義は両立しない」という諦念を大っぴらに表明するようになった。実のところこの両立不可能性の指摘はむしろかつてのマルクス主義者の十八番であり、今日のリベラル・デモクラシーにおいてさえ、両者に緊張関係があること(だからこそ立憲主義が必要なこと)は常識に属するといえばいえる。リバタリアンの源流の一人たるハイエクの立憲主義論も大衆民主主義への深い懐疑の上に成り立ち、司法や代表制議会の強い制約のもとでのみ、自由を民主主義の脅威からよく守ることができる、との認識を示していたはずだ。しかしながら今日の一部のリバタリアンは、この懐疑を再認識するのを通り越して、もう少し向こう側に行こうとさえする。つまりは共産党支配下の中国や開発独裁のシンガポールを肯定的に評価し、絶対王政や封建制の再評価さえ口にするのだ。つまりはAJRが否定しようとしている「リベラルな独裁」かそれ以上のものを求める。かつてのリバタリアンにおいては、リベラリズムの一翼として性差別や人種・民族差別の確固たる否定があったが、昨今ではそれをも放棄して権威主義的統治を志向する論者さえもいる。
リバタリアンが脚光を浴びる前、新自由主義が時代の寵児となる以前には、第二次世界大戦後の西側の政治的保守主義は、東側のマルクス主義的社会主義に対抗するためにも、民主主義と自由主義の両立に固執したが、冷戦の終焉以降、そうした対抗の必要性は薄れた。むろんそれからも大部分のリバタリアンは、民主主義、少なくとも立憲的なリベラル・デモクラシーを否定することはなかった。それこそ新自由主義的な政策思想が優勢な中で、リバタリアンは過激な少数派とは言え、時代の先端をリードする存在として自負することができた。しかしながら二一世紀に入ると、ある種の疲労が見えてきた。ムードとしての新自由主義的思潮の浸透にもかかわらず、地球環境問題の深刻化や急激な少子高齢化は、福祉国家体制の見直しまでは要求しても、否定は無論のこと後退さえも許さなかった。更に二〇〇八年のリーマン・ショックをはじめとする経済的危機の連続は、一時期は滅び去ったかに見えたケインズ的なマクロ経済政策思想を、再び時代の表舞台に呼び戻した。そのような中で、一部のリバタリアンは敗北感を――民主的政治プロセスを通しては、リバタリアンが理想とする政策体系、社会経済体制はついにできあがることはないだろう、という断念に到達しつつある。皮肉にも彼らは、かつての、暴力革命なしでの体制変革の可能性を否定し、社会民主主義を批判した正統派マルクス主義者と同様の結論に達したのである。
とはいえマルクス主義者とは異なり、広義のリベラルであることを捨てないとなればリバタリアンは、暴力革命、クーデターによるリバタリアン・ユートピアの樹立を提唱するわけにはいかず、たとえばメガフロートによる人工海上都市、あるいは他天体や宇宙ステーション上のスペース・コロニー、あるいはポスト/トランスヒューマニスティックな人間改造、たとえば全脳エミュレーションを介したマインドアップローディングによるサイバースペースなどの、テクノロジーによる新たなフロンティアへの移住・植民といった手段に訴えないわけにはいかない。それゆえに彼らは、もはやリベラルとは言えない「反動」――エリートによる独裁や寡頭政を求める場合――にも、技術革新と経済成長の器となる自由な市場経済だけは否定できないのだ。ただし経済成長にプラスになるかどうか定かではない、あるいはマイナスかもしれない類の社会的な自由に対しては、かつての「リベラルな」リバタリアンとは異なり、今日の新反動に転向したリバタリアンは極めて敵対的である。
「国家の暴力から逃れて自由になるには、市場を介してひたすら外へと逃げ続けるしかない!」という彼らの選択は、いかにも滑稽ではあるが理屈は通っている。少なくともドゥルーズ&ガタリに忠実に左派の看板を下ろそうとはしないマルチチュード論のアントニオ・ネグリ(ネグリ&マイケル・ハート『帝国』以文社、他)よりは、だ。ネグリがほのめかすのとは異なり、市場において無産者=プロレタリアートは、決して資本家より速く走ることはできない。運のいい者、気の利いた者は自分の才能を「人的資本」に変じ、更にはそれを物的資本に転化して資本家に成り上がるだけのことだ。(労働者自主管理企業の経験からも、結局は労働者仲間のうちで経営者層とそれ以外とが分離し、やがて経営者層が資本家に転じていく、というパターンが多いことがわかっている。)自分の身体以外に利用できるものを持たず、アレント的な意味での公共世界から引きはがされた(もとより高度な資本主義の下では、それは解体し溶解していくのであるが)ジョルジョ・アガンベンのいう「剥き出しの生」を生きるホモ・サケル(アガンベン『ホモ・サケル』以文社)たる無産労働者は、資源として有産者に搾取されるのみである(この論点について詳しくは拙著『「公共性」論』を参照)。彼らに望みうるのはせいぜい、せめて最大限の成長の下で、賃金が可能な限り高くなり、売り手市場の労働市場の下で、気に染まない働き口からは自由に逃げられる可能性が確保される、という程度のことだ。
しかしながらフロンティアへの無産者の逃走は、実はかつても困難であったし、地球上に自然なフロンティアが枯渇しつつある現在は、なおのこと至難である。いわゆる「大航海時代」から産業革命前、ヨーロッパ旧世界から「新大陸」アメリカ植民地に無産者が渡航する場合には、渡航費用を数年間の年季奉公で支弁するケースが支配的だった(川北稔『民衆の大英帝国』岩波現代文庫、)。同様のロジックは、スペース・コロニーであれ仮想空間であれ、未来のハイテクノロジーのフロンティアにおいても同様にあてはまるだろう。ネグリらドゥルーズ&ガタリ左派はしばしば「サイボーグ化」を称揚するが、単なる比喩として用いているならば人畜無害なおしゃべりにすぎず、本気で言っているならばナイーブすぎる。(この論点については拙著『宇宙倫理学入門』をも参照。)「サイボーグ化」とは人的投資の一種に他ならない。
無産者と有産者の間での、雇用や請負といった形での取引は、公的な制度の支えなくしては、対等で水平的なものにはなりえないことは、既に論じてきたとおりである。労働の取引にせよ金融取引にせよ、信用取引の要素を持つ無産者と有産者のゲームにおいて、そのスキーム自体を提供する形で先手を取るのは、通常は有産者の側である。
ここから第二の論点が浮上する。真に自由な市場経済、ただ単に逃げる(アルバート・ハーシュマンのいうexit〔ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』ミネルヴァ書房〕)権利だけではなく、無産者でも有産者と取引相手と対等に交渉し(ハーシュマンの言うvoice)、やろうと思えば起業もできるような市場経済のある社会は、実際には誰でもが有産者である共和主義的な社会でなければならない。市場経済のみならず、民主的な統治もまた、形式的な参政権の平等のみならず、他人によって操作され誘導されることのない判断力と、それを支えるに足る十分な資産とを万人が備える必要がある。
十分に自由な市場経済も、機能的な民主政も、教養ある有産者によってしか担い得ない。そこで無教養な無産者は政治から排除し、自由な市場においても能動的な主体ではない、受動的な商品になってもらう、とするのではなく、無産者においても長期的な財産形成を支援し、必要とあらば再分配も行って、万人を有産者市民とする――それが「リベラルな共和主義」の眼目である。しかしながら資本主義経済の環境下では、かつての産業革命以前の世界とは異なり、財産の典型は有体物から無体物へ、実物ではなく金融資産かあるいはもっと心もとない「人的資本」に移行している。公共世界もまた実体性を失い、抽象的な論理空間となっている。このようにすべてが「資本」として流動化していく世界の中で、確固とした(アレント的な意味での)公共世界と私有財産を、資本主義といかに折り合いをつけつつ構築し維持していくか? これが「リベラルな共和主義」にとっての基本課題である。
――このたった二つのことを言うためだけに、存外時間がかかってしまった。実質的な作業としては、木庭顕『ローマ法案内』を手掛かりに前著『「公共性」論』をより簡潔に書き直す、以上の作業ではないはずが、思いのほか難航した。
中央公論社の郡司典夫氏から中公新書への書下ろしのご提案を戴いたときには、『政治理論入門』とでもいうべき小著を書きたい、とお答えした。既に『経済学という教養』(東洋経済新報社、ちくま文庫)『社会学入門』(NHKブックス)をものした身としては、ここに政治学を加えて入門書三部作をこぎれいにそろえたい、という野心があった。しかしながら苦心惨憺しながらひねり出されてくる原稿は、そう大部なものではなかったにせよ、新書の箱に入れるにはかなり難解で入り組み、少なくとも「入門」と銘打つのははばかられるものとなってしまった。
上に書いた二つの論点を新書サイズで簡潔明瞭に書き下ろすには、正直なところ「勇気」が足りなかったと言わざるを得ない。入門書を書くに際しては、書き手が必要不可欠、最重要と考える若干の論点に主題を絞り込み、それ以外については大胆に切り落とす胆力が何より重要である。「ほかにも大事なことはある」「主題についてちゃんと理解してもらうには、その周囲の論点もくまなく説明し、外堀を埋めておく必要がある」などといった迷いを、あるところで振り捨てて、読者を信頼する――取りこぼしたところは読者が自分で拾ってくれると信じてゆだねることができなければ、入門書など書くことはできない。
『経済学』『社会学』においては自信をもってそうした裁断を行うことができたが、正直なところ今回は失敗した。それだけ「読者にわかってもらうにはもう少し言葉を尽くさないと」という焦りが筆を重くし、記述をくどくしたのではないかと危惧する。にもかかわらずレーベルを新書から叢書へと移しての刊行を決断してくださった郡司氏には感謝の言葉もない。