「労使関係論」は何だったのか?(13)

 1990年代には、特に不況に襲われることのなかった日本以外の諸国を含めて、労働経済、労使関係への関心に比して金融、財務への関心が相対的に高まり、企業レベルに焦点を合わせた議論においても、労使関係、人事労務管理よりもむしろインベスター・リレーションを含めたコーポレート・ガバナンスへの関心が強まった。むろんコーポレート・ガバナンスの議論においても、労働者、従業員が「ステークホルダー」として登場する余地はあるが、必須の存在ではない。「労働組合なき労使関係」はありえても「労働者なき労使関係」はありえないが、「労働者(従業員)なきコーポレート・ガバナンス」は十分にありうる。もちろん「金融中心主義」は滑稽だが、日本資本主義論にとってのみならず、そもそも資本主義論において、労使関係、労務管理という問題領域こそが、特権的に「管制高地」なのだという臆断があったとすれば、それは責められるべきであろう。
 しかしそれ以上に重要なことは、ことに不況下の日本を焦点として、マクロ経済現象への関心が改めて高まったことであろう。石油ショック後のスタグフレーション、「福祉国家の危機」を経て先進国のマクロ経済運営においては、新自由主義のマクロ政策版としての「マネタリズム」に基づく、裁量を極力排し、景気よりもむしろ物価安定を志向する政策路線が支配的となった。ケインズ政策の有効性は疑われ、それどころかケインズ的な意味での不況自体が、実際には存在していなかったのではないか、と疑われるようにさえなった。しかし日本の現実は、30年代大不況以来の久々の本格的なデフレーションとして、ケインズ経済学・ケインズ政策の再評価の機運をもたらした。のみならず当時の日本の経済政策運営は、ミルトン・フリードマンをはじめとして、マネタリズムの立場をとる経済学者の少なからずにとっても非合理的なものと感じられ(マネタリストにとって不況は基本的に貨幣供給不足による一時的現象で、実体経済的根拠を持った構造的な現象ではない。しかしその限りで、一時的な政策的対応の必要は否定されない)、積極的な金融緩和政策を提言する声が広く聞かれることとなった。そして実際、日本の金融当局が2000年代後半に採った量的緩和政策は、一定の成果を収めた。しかしながら、日本の労働運動や労働者世論、あるいは労働関連のアカデミックな研究者が、この量的緩和政策の採用に際して何らかのポジティブな役割を担った形跡はない。


 ここまでの議論からある一定の方向付けを設定しておこう。80年代から90年代初頭までの「日本的雇用慣行」「日本型企業社会」をめぐる議論は、まずその経済的側面については、ある程度小池バージョンの企業特殊型熟練・内部労働市場論を継承した上で、企業内組合もそうした労働市場を組織化する機能を発揮したと理解するものであった。その意味では氏原の議論のスピリットがある変更を伴いつつも継承されていたといえる。これに対してこの企業秩序、更にそうした企業秩序を根幹とする日本社会全体の秩序に対して批判的に対峙しようとする研究は、それでもこの枠組の説得力を承認せざるを得ず、それゆえに旧世代のマルクス主義者のようなあからさまな抑圧論をとることはできず、おおむねグラムシヘゲモニー論の枠組を用いて議論することとなった。(一部ではフーコー的な言葉遣いさえ見られたが、実りある展開はなかった。)
 70年代は「参加革命」の時代であり、労使関係においても「経営参加」「自主管理」なる言葉が熱く語られた。その波は早晩退潮したとはいえ、80年代は新自由主義の時代であったと同時にまたネオ・コーポラティズムの時代でもあって、緊縮財政と抑制的マクロ経済政策への労働者と労働組合の合意取り付けの政治的選択肢としては、レーガンサッチャー型のタフな対決型・組合排除型の戦略とともに、北欧型の労組取り込み型(サッチャー前夜の英国労働党政権下で挫折した「社会契約」路線の継承とも言える?)の戦略の可能性も展望されていたのである。そのような状況下で日本モデルは独自の存在感を発揮していた。典型的ネオ・コーポラティズムにおけるような政策過程における影響力があるようにはみえない日本の労働運動であったが、非常に特異なやり方で「社会契約」「所得政策」を成功させたようにも見えたからである。
 ここでいう「社会契約」とは、スタグフレーションに陥った英国において、「所得政策」つまりインフレ抑制のための賃上げ抑制を、社会政策と引き換えに労働運動に呑ませようというスキームのことを意味している。英国ではこの戦略は破綻し、サッチャー主義による現場労使関係レベルとマクロな政策決定レベル双方での労働組合勢力の影響力排除という路線が支配することとなったわけだが、北欧諸国ではむしろこの「社会契約」に近い形でマクロ経済の安定化が実現した、とされる。
 日本の場合は、マクロレベルでの労働運動は「生産性基準原理」にもとづく賃上げ抑制を受容したが、それと引き換えに明確ななにごとかを財界や政権から受け取れたというわけではない。しかしミクロレベルでは、民間大企業セクターの労働運動は、賃上げ抑制や合理化への努力を引き換えに、相当程度の雇用保障という成果を受け取った――80年代の事情はこのように解釈されることが多い。この時代に一般化した出向・転籍という雇用政策は、のちのバブル景気の時代には経営多角化の便法として、更にバブル崩壊後の不況下では再び人員整理の手法として、延々と生き延びることになる。
 国政・マクロ経済レベルでの存在感が薄いにもかかわらず、企業レベルで労働者たちが発揮しえた交渉力の源として、企業特殊型熟練がある、とするならば、議論はある程度閉じる。しかしもし仮にそうした企業特殊型熟練がそれほど意味を持たないならば、逆に本来の意味でのネオ・コーポラティズムなくしては、長期的には労働者の権益は守られえない、ということになるだろう。既に論じたとおり、技術的な意味で真正の「企業特殊型熟練」が存在しているならば、そのような状況下での企業内労働市場は完全競争的でありうる。そこでの「企業内労働市場」はそれ自体一個の独立した市場であって、外部労働市場からの規制を直接には受けないからである。もしそうではなく、企業特殊型熟練が不完全情報、市場の不完全性によってはじめて成立しているとすればどうだろうか? このような不完全市場が自然に存続するか、あるいは制度的に確立するかのどちらかが条件として必要だろう。「制度的に確立する」とは端的に言えば、労働組合による集団的規制が法制的な支援(立法による労働組合の地位の積極的な制度化にせよ、あるいは労使関係の現状の判例法による追認にせよ、あるいはまた現場慣行の行政当局の黙認によるにせよ)を受けて経営を制約するか、あるいは直接に公共政策によって経営の雇用管理が規制されるか、のどちらかがそのもっとも自然なあり方である。