「労使関係論」とは何だったのか(3)

 段階論のベンチマークとしては大別して上部構造的な「政策」「法制」「イデオロギー」と、下部構造的な「生産力」「産業組織」との二通りが考えられる。そして両者の予定調和は必ずしも保障されていない。結論から先に言えば、後者の契機に着目したうえで、実証研究の精度を上げていけば、行きつく先は段階論の否定にならざるを得ない。資本主義的市場経済の展開の中で、市場構造も産業組織も、細かく言えばセクターごとに多種多様であり、それぞれにおいて必ず「自由競争→独占」という傾向が存在しているわけではなく、また個々の企業のみならず、産業のレベルで栄枯盛衰、新陳代謝が繰り返される。それは全体としての「段階」というくくり方を暫定的にしか許さない。
 そしてとりわけ既にみたような戦後初期の「東大学派」の労働問題研究の文脈においては、「段階論」にとってのみならず、マルクス経済学的資本主義論にとってどうしても原点になってしまわざるを得ない「自由主義(段階)」における「典型」を、英国風のクラフト・ユニオニズムに求めてしまったがゆえに、前者の解釈が勝ってしまうことにならざるを得なかったはずである。栗田健の仕事はそのようなものとして読まれた。栗田を含めて狭義の経済学というより政治経済学的な志向を有する研究者たちの仕事は、国家の社会経済政策とそれに対する労働組合・労働者政党のコミットメント――今日ではむしろ政治学者たちの領分――までをも射程に入れた研究になっていく。
 しかしこれに対して、小池和男のように政治経済学的な志向の低い研究者たちも確実に存在した。彼らの作業は職場、生産点における労働や、組合による規制の実態に焦点を当てていくことになる。