「労使関係論」とは何だったか(2)

「段階論」

 宇野弘蔵の独自のマルクス経済学体系において、労働問題研究に対して、のみならず日本の社会科学全般に対して最も影響力が大きかったのはその「段階論」の部分である。段階論自体は宇野理論の独創ではもちろんなく、20世紀マルクス経済学そのものにとってのキモと言うべきポイントであるし、更に言えばマルクス主義の独占物でもあり得ないのだが、20世紀を19世紀とは質的、構造的に異なる社会として把握する枠組みとしての「段階論」の、日本におけるもっとも洗練されかつ影響力があったバリエーションが、宇野学派のそれであったとは言ってよいだろう。
 宇野学派の段階論において、何が資本主義経済の発展段階を画することになるのか、についてはある程度の含みがあり、論者によって強調点もことなる。段階論を定式化した宇野自身の著作は『経済政策論」であり、国家の経済政策、それを先導し総括する政策理念を段階のベンチマークとしているかのように読むこともできないではないが、しかしそうした政策・政策理念は、マルクス主義の伝統から逸脱することなく、社会内の特定の階級・集団の利害に基づけられている。
 もちろんここでいう段階論――つまりあくまでも資本主義の枠内での段階的発展を問題とする議論においては、大枠としての史的唯物論階級闘争史観の場合よりも話は細かくなる。つまり資本主義社会の支配階級はブルジョワジー――ということで話は終わらない。ブルジョワジーの中で更にどのようなフラクションがリーダーシップをとっているか、が問題となる。それは更に言えば、主導的集団が経済的基盤を置いている産業部門はどこか、という問題につながっていく。だから段階規定のベンチマークとしては、政策以上にその政策を主導する集団の経済的基盤が重要である、ということにもなりうる。宇野派風にいえば「支配的資本の蓄積様式」だ。
 宇野自身の原型的な議論においては、政策理念をベンチマーク


重商主義
自由主義
帝国主義


という三つの段階が区別され、それぞれの政策の背後にある「支配的資本の蓄積様式」は、


重商主義に対しては、直接的に生産過程を支配しない商人資本
自由主義に対しては、雇用労働によって直接的に生産過程をコントロール下に置く産業資本
帝国主義に対しては、法人企業組織を採用して大規模化した金融資本


という風に整理される。
 さて段階論において重要なのは「政策」なのか、「蓄積様式」なのか? おそらく宇野自身の意図においては、政策は支配的資本の担い手の利害・イデオロギーを反映しているため、より基底的なのは「支配的資本の蓄積様式」の方である、ということになろう。このことはまた宇野ならびに学派のほとんどが、「国家独占資本主義」を一個の独立した段階としては認めず「帝国主義」段階の一部とするか、あるいは「段階論」そのものの対象から外して「現状分析」の守備範囲とするか、という処理をしていることによっても裏付けられる。宇野の見立ててでは国家独占資本主義においても、「支配的資本」は以前金融資本である。政策レベルで金本位制放棄や労資同権化(後の宇野派における国家独占資本主義論における主流と言うべき大内力説はここに着目する)といった、構造転換とも呼ぶべき劇的な展開がみられるにもかかわらず、宇野が国家独占資本主義を独立した「段階」とは見なさない理由は、ここに見出せるであろう。(更に言えば宇野は大内と異なり、金本位制廃棄や労資同権化に対してほとんど関心を示さず、農業保護やブロック経済化を「現代[20世紀]資本主義」論の焦点とみなしていた。)国家独占資本主義はあくまでも帝国主義段階の末期、腐朽期、社会主義への移行期として位置づけられていたのである。


 しかしながらこのような発想は早晩限界に突き当たる。第一にそれは帝国主義段階の次に来るものを予想する論理を持たず、資本主義の「末期」=社会主義への「移行期」は際限なく引き伸ばされた。70年代、ブレトン=ウッズ制の崩壊から石油ショック、「福祉国家の危機」「スタグフレーション」に対して「いよいよ資本主義の危機!」と色めき立ったのもつかの間、マネタリズムやその他新自由主義的なアプローチによる「危機」の克服によって、そのリアリティはいよいよ解体していった。そして第二に、デリケートな実証分析の深化もまた、段階論のリアリティを掘り崩していく。政策体系やそれを導く理念、あるいは国家体制などにおいてはしばしば劇的な変化が起きることもあるが、市場構造や企業形態、生産技術などの実体経済のレベルには、早々革命的な変化などは起きないし、国ごと地域ごとどころか産業ごとにも事情はさまざまである。「支配的資本の蓄積様式」などというものは所詮、分析者が用意した「理念型」にしか過ぎない。それがある程度の実体的な根拠を、持ちうるとすれば、それこそ政策主体の参照枠組になることによってである。
 こう考えると「政策」基準の、言ってみれば「知識社会学」的な段階論解釈が、それなりに筋の良い議論として見えてくる。そして労働問題研究においても、この解釈がそれなりの影響力を発揮することとなる。

経済政策論

経済政策論

戦後初期「東大学派」の労働組合

 ドイツ社会政策学を土台に、金井延までは社会学的な色彩も強かった東大「社会政策」は、大河内一男とともに「経済学」に、かつその焦点は労働政策・労働問題に。「資本論歴史学派風に読む」。そこから「社会政策」のラベルのもとで「労働問題」を研究する伝統が本格的にスタートする。なおかつそれは「経済学」として捉えられる。
 戦後の氏原正治郎は、はっきりと社会政策から決別し、労働問題の経済学的研究を志す。そこで中核となったのは労働市場の概念であるが、そこで労働市場を組織化する機構として労働組合が捉えられた。大河内社会政策学でも、労働市場は自由放任や単なる「小さな政府」のもとではうまく機能しないものとして捉えられ、その支えとしての国家による社会政策の必要が論じられていたのだが、氏原にも類似の発想があったと言えるかもしれない。ただしそこでの労働市場組織化の主役は国家の労働政策ではなく、労働者の自発的組織たる労働組合として捉えられていたことが重要である。
(中西洋の指摘によれば大河内は戦時中にある後退を示す。初期の大河内社会政策論は、それが立ち向かうべき資本主義経済の欠陥を明確に階級闘争として捉え、社会政策の背後に「政治」を見据えていたのに対して、有名な『転向』研究で分析の対象とされた翼賛体制への協力(偽装転向)期においては、こうした階級闘争への言及が打ち消されてしまう。そして中西によればそれは大河内において「政治」のみならず「市場」が見失われることにもつながった。戦時中の大河内「生産力」論には「政治」のみならず(市場)経済も不在になってしまったのである。これに対して氏原の構図においては、明確に市場が見据えられていた。)
 ここであえて京大学派(岸本英太郎)との対比を行うならば、京大学派においては労働組合は(労働)市場を制限するものとして捉えられていたのに対して、(初期大河内? そしてなにより)氏原においては、まさに労働市場の組織者として労働組合が捉えられていた、ということである。京大学派においても労働組合、労働運動の政治的側面は見失われておらず、「階級闘争」への注目は東大学派以上かもしれない。しかしながら東大学派の場合には、労働組合や労働政策を反市場的、市場外的なものとはとらえず、むしろ市場を支える仕組み、資本主義経済にシステマティックに内在する存在として捉えたのである。

 東大学派の次世代、氏原の門下生たちはそれに加えて、宇野段階論の影響を強く受け、現代(つまり20世紀中葉・後半)資本主義を独占段階(帝国主義ないし国家独占資本主義)にあるものとしてとらえ、労働市場労働組合もまた独占段階に照応したものとして捉えようとした。すなわち、大企業における基幹従業員の長期雇用・内部昇進・年功賃金といった雇用・労務管理システム、更には労使交渉単位としての職場・工場・企業の焦点化――日本の場合は企業内組合化を、独占資本主義に適応した仕組みとして捉えようとしたのである。これはまた同時に、日本的労務管理・労使関係を「封建遺制」「文化的特殊性」としてではなく、普遍的な経済学の論理に適合的なものとして捉えようとする試みでもあった。
 その準拠理論としては宇野流の、資本主義の発展段階論のみならず、イギリスを資本主義と労働組合・労使関係機構の先進国と見立てての、ウェッブ夫妻の労働運動史論もまた重要であった。彼らの議論と段階論を組み合わせ、19世紀イギリスの機械工組合(ASE・AEU等)等、熟練工主導の職能別組合主義、クラフト・ユニオニズムを自由主義段階に、ロンドン沖仲仕ストライキ以降の、未熟練労働者主体の大衆運動としての産業別組合主義を独占資本主義段階に、それぞれ適合した労働組合の組織形態として位置づける。前者は一般的(企業横断的)熟練技能養成機能(徒弟制)と相互扶助機能(共済活動・職業紹介活動)によって労働市場の供給サイドを自力で支配し、それをもって雇用者に対する交渉力とするのに対して、後者は多様な職種にわたる未熟練労働者の大衆的結集力を基盤とする。資本設備の巨大化と、それに伴う技能の企業内部化(企業特殊化)ともに、技能養成のリーダーシップは雇用者側に奪われ、労働市場の統制力も低い。だからこの時代に支配的となった組織形態は、職業・職種横断的で産業単位ということで「産業別組合主義」と呼ばれてはいても、産業別の労働市場を支配しているわけではない。組織の基礎的な単位は、経営外の地域レベルの支部におかれていた職能別組合の場合とは異なり、職場・事業所レベルの支部となり、そもそも企業横断的な(外部)労働市場の統制力を持たない。
 それゆえ「資本主義の発展段階」という観点からみた場合、産業別組合と、日本固有とみなされがちな企業別組合とは、同じく独占段階に適応した組織形態の、異なるヴァリアントにすぎない。どちらも労働者個人の技能養成においてリーダーシップをとれない以上、企業横断的な外部労働市場を統制できず、企業・経営側が用意した職場・事業所・企業といった場所を拠点にするほかはない。両者の違いは、一にかかって、独占段階に先立って企業外部的労働市場を組織する職能別組合組織が存在していたかどうか、に由来する。
 更に独占資本主義化に伴う景気停滞の長期化・失業の増大・長期化は、外部労働市場における失業者の圧力を増し、彼らを組織化できない産業別・企業別組合は、雇用者と対等に交渉するためにはその足場を公共政策による支援によって固めなければならない――すなわち、共済の代わりの雇用・社会保険、職業紹介の代わりの公的職業安定行政、更には労使関係法制によって。こうした理解を代表する若き氏原門下生たちによる業績が、労働市場と生産システムに焦点を当てたものとしては小池和男『賃金』であり、労働政策・労働政治を主題化したものとしては栗田健『イギリス労働組合史論』である。
 そしてここでの段階論解釈は、「支配的資本の蓄積様式」に、あるいはそこにおける労働市場の構造に照準したものというよりは、「政策理念」に照準したものであることに注意せねばならない。自由主義段階における「支配的資本」が工場制軽工業であるとしたら、クラフト・ユニオニズムは「支配的資本」とはあまり関係がない。クラフト・ユニオニズムが支配的であったのは機械工業であり、軽工業においては労働運動の浸透力はいま少し弱く、またクラフト的規制というよりは後の産業別組合的な、職場レベルの団体交渉の先駆形態とでも呼ぶべきものが発達してきていた。にもかかわらずクラフト・ユニオニズムを自由主義段階における労働組合の「典型」とみなすならば、その根拠は運動としての自律性、市民社会における存在感、そして時代の支配的な経済政策思想との親和性にこそ求められなければならない。

イギリス労働組合史論

イギリス労働組合史論