日本建築学会復旧復興支援部会シンポジウム「復興の原理としての法、そして建築」(3月23日)感想

 以下は当日の模様のレポートではなく、あくまでも私的な感想である。公的なレポートは、来る『法学セミナー』をご覧いただきたい。なお、以下では触れていないが、モデレーターの木村草太による資料はきわめて充実しており、一見の価値がある。いずれ配信されると思われるので、希望者は木村氏にリクエストを出そう。

=====================

「建築と法という観点から見たときに、今回の震災において一つ考えなければならないのは、やはり多くの人びとが財産としての住宅を失ったということである」「その意味において今次震災においては「何か全く新しいことが起きた」というより「以前からあった問題があからさまになった」だけのことである」との今回のシンポジウムの趣旨は大変にまっすぐで正当であると同時に、門外漢にとっては大変に示唆的でもあった。


 基調講演で山本理顕は、ハンナ・アレントを引いて「(財の)分配としての/(空間の区画割り)としてのノモス」について語りつつ、仮設住宅における公共圏の貧困、そしてそれに対抗する自らの試み(理論としての「地域社会圏」と釜石市での実践)について語った。それに対して石川健治は、近代法(学)、憲法(学)と建築(学)との平行性について、アレントのそれと直に響き合うカール・シュミットのノモス論や、ル・コルビュジェモダニズム建築、とりわけピロティーと根本規範(Hans KelsenのいうGrundnorm)の同型性について触れた上で、近代法が「人」と「物」の二分法(ならびに「人による物の所有」と「国家による人の支配」の二分法)によって「空間」を見失ったことを指摘した。
 この石川の指摘を私なりに咀嚼すれば、古典的世界では「物」であると同時に「空間」でもあった「土地」が、近代法の世界においては動産と同質の単なる「物」に還元され、「空間」が物理的な空間というよりはバーチャルに観念化され、物理的な空間、土地、その上の構造物と不可分なものであったはずの法(ノモス)もまた抽象的な言語観念化した、ということであろう。
 言い換えるならば、近代法においてはもちろん土地法、都市法は高度な発展を遂げてはいるが、物の秩序であると同時に空間秩序でもあるノモスとしての法は、根本的にはむしろ衰弱しているのではないか、という問題提起として、石川の指摘は解釈できる。そして石川はまた日本の憲法学における「財産権」観念の衰弱についても鋭く指摘している。戦後憲法においては「財産権の保障」とは、財産の公用収用に対して「正当な補償」を受けられる、つまり「財産価値の補償による保障」でしかない。つまり物として、空間としての財産への権利は必ずしも十全に保護・保障されているとは言い難いのである。
 そうした近代法の展開には相応の理由があったはずではあるが、そこにはやはりある衰弱、解体があったのであり、そうした衰弱、解体を一部の人びとはアレントに倣って公共圏の解体と見なしてきた。しかしそれはまた私的領域、古典的な意味での私有財産の衰弱でもある。公共性の解体は私的なるものの衰退でもある。今次震災において、被災者が私有財産と公共的つながりの双方の毀損を被っていることは、それを劇的な形で示しているにすぎない。例えばこうした「公共性と私事性が背反するかのごとく観念されること」の問題性を克服すべく、駒村圭吾はプライバシー概念を従来の一方的な「自己情報コントロール権」から、関係性を正面から視野に入れた「自己情報の信託」へと読み替えていくことを試みているわけである。
 それにしても、今次震災がその単なる兆候に過ぎないものであるところの、「近代」において一貫して進行している、公共性と私事性の同時並行的衰退とは、具体的にいえば何なのか? 


 山本は「我々建築家が奉仕すべき相手は施主であるところのディベロッパー/(地方・中央)政府なのか、居住者たる住民なのか」と最後に問いを立てる。しかしもちろんここで単純に国家や大資本を悪者にして、住民につくと宣言すれば済むわけではない。内藤廣が指摘したとおり、何だかんだいって7万戸の仮設住宅を供給できた国家と資本の力をそれ自体として「悪」と指弾するのも愚かなことである。
 それに何より、ディベロッパーから住宅を最終的に購入するのは住民であり、そこにおいて「消費者主権」の力がはたらく、と「市場原理」の観点からは言いうるし、公共住宅の供給主体たる政府の主権者もまた、最終的には住民であるはずだ。問題はあくまで、そうした「消費者・住民主権」のメカニズムが理念通りにうまくはたらかないことにあって、その理念自体に問題はない――と教科書通りに言ってしまうこともできる。
 なぜ我々はしばしばそうした理念を空虚な建前と感じてしまい、本来は(理念的には)市民社会の内在的な構成要素であるはずの「企業」や「政府」を、社会に対するエイリアンとしての「資本」「国家」として観念してしまうのか? そのこととノモスの衰弱、空間秩序の抽象化と観念化との間には、密接な関連がある。


 松山巌はコメントの中で、必ずしも正面切ってではないが子どもと障害者、そして疎開という問題群の重要性について示唆した。それはまた同時に、今回のシンポジウムではあえて避けられた、原子力発電所事故と放射能汚染という問題系への暗黙のリファーでもあっただろう。
 ここで我々は、近代法においては同じく「法人」という体裁をとる「企業」ならびにほとんどの民間団体と、国家、地方自治体といった公共団体との間に、あるきわめて重要な違いがあることを指摘せざるをえない。
 「企業や民間団体は私的な存在であるのに対して、公共団体は公的な存在である」などという素朴な議論はナンセンスである。株式を公開した有限責任会社であれば、営利法人企業もまた公的な存在である。最高意思決定機関としての株主総会は、理念的には異質な利害が衝突する、討論、交渉、議論の場である(もちろん過半数株主が存在すれば、有無をも言わせず好き勝手ができるとは言え)。またそこではメンバー(株主、つまり会社法上の社員)の私的な財産・行為と、会社それ自体の財産・行為は厳格に区別される(いうまでもないが社員ではない従業員の場合にもこれは当てはまる)。また株式が公開されている以上、普通の団体とは違って、誰でも金さえ積めばそのメンバーになれる。この意味では公開会社は通常の国家以上に(「開かれている」という意味においては)公的な存在である。
 「政府は正当な実力行使をなしうるが、民間団体はそうではない」という区分も、近代中葉のある局面において、一時期だけ成り立ちそうに見えたが、近世にはそもそも成り立ちえなかったし、20世紀末以降も、理念的にさえ成り立たなくなった。
 むしろここで試案として提起したいのは「公共団体は土地、あるいは具体的な物理的空間、場所(トポス)を「占有」する(必ずしも「所有」するとは限らない。「占有」にとって「所有」は必要条件でも十分条件でもない。とはいえここでの「占有」とは、たとえ「所有権」といった「本権」の裏付けを欠いたとしても、単なる裸の事実ではなく、尊重さるべき「権利」である)ことが必要であるのに対して、民間団体にはその必要がかならずしもない」ということである。
 本当は、ことの本態に即して言うとすれば「団体は一般的に何らかのゴーイング・コンサーン・バリューの維持をその主たる機能とするが、公共団体の場合には主としてメンバーの生存・再生産維持(サブシステンス、リプロダクション)に主眼があるのに対して、民間団体の場合には必ずしもそうではない(単なるプロダクション)」といった方がよいのだろう。しかしここで生存・再生産に必要な契機を仮に「衣食住」とまとめるとするならば、「住」だけは一定の物理的空間(それが仮に土地に確固として根ざしておらず、洋上や空中の構築物であったとしても)なしには確保できない。


 おそらくは人びとが企業、「資本」に対して、あるいは具体的な地域を離れた「国家」に対して抱く違和感は、以上のごとき事情に根ざしている。


 しかしながらかつて三原山噴火に際して伊豆大島町が、そして今次震災において双葉町浪江町大熊町といった原発周辺自治体が、その元来のトポスから引きはがされた。あるいはまた一時期のPLOもまた、一種「国土なき国家」であったとは言えないか。
 あるいはまたスラムや難民キャンプとは、その占有を権利としての「占有」と認められず単なる不法占拠と見なされるがゆえに、しばしば実力によって排除されてしまうコミュニティである、と言える。
 ここで我々は、トポスを奪われた公共団体に、トポスを再獲得させることをあくまでも目指すべきなのか、それとも同時に「トポスなき(にもかかわらず「住」をよく確保する)公共団体」の可能性をまずは理論的にでも考えていくべきなのか。「疎開」という一言から私は、ここまで勝手な連想をはたらかせてしまった。