キャラクター小説・ライトノベルの特徴

 あずまんの新著ゲーム的リアリズムの誕生
講談社現代新書
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と、今度「まんたんブロード」に評を書かないといけない日本橋ヨヲコ少女ファイトhttp://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060730/p1)を読んでいて考える。
 いわゆる純文学とエンターテインメントを分けるときのインデックスの一つとして、作中に「書き手」が――単なる目撃者、証言者、物語の語り手というのではなく、それとは関係なしに小説か何かを書こうとしている、何かを表現しようと苦闘している存在が登場するか否か、というポイントが挙げられるのではないか。(おおざっぱに言えば、前者には比較的頻出し、後者にはそれほど出てこない。)この意味で日本橋ヨヲコは「純文学的」なまんが家であるわけだがそれはさておき。
 これに対してポストモダン小説としてのライトノベル(キャラクター小説)の特徴は、非常におおざっぱに言えば、作中の「キャラ」立ちしたキャラクターたちが、あたかもフィクションの中のキャラクターたちのごとく(極端な場合には、まさにそういう自意識をもって)振る舞う、ということではないか。
 作中人物たちが自らが虚構内存在であることを自覚している、という設定は、有名なところでは小松左京をインスパイアしたというルイジ・ピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』だの筒井康隆虚人たち』だのがあるわけだが、実はライトノベルにおいても、微妙に違ったかたちではあれ、このような「自分が虚構の中である役割を演じている」という自覚を持つ、あるいは自覚はなくともまさにそのように振る舞うキャラクターたちが頻繁に登場する。最も端的には、楽屋落ち的セルフパロディにそれは表れるが、ことに『エヴァ』以降、それにとどまらず「本編」までもがこうした雰囲気に支配された作品が出てきているように思われる。
 東は伊藤剛の議論を踏まえて、ライトノベルにおいてキャラクターは「キャラ」として立つが故に、一つの物語の中で完結せず、作品そのものから自立してあふれ出してしまう、と指摘するが、それはまさにこのような事態をうまく説明してくれているのではないか。


 ……とかいう風にあまりラノベを読んでない人間が利いた風な口をきいてよいのか悩みますが。