批評の方法としてのファンフィクション(続)

 断片的メモ。
 

近代文学のオリジナリティ、sincerityへのこだわり以前の文芸を見れば当然ながら、伝統的に共有された主題の使い回しというものは散々普通に行われてきたことであるが、しかし近代においても演劇というジャンルははっきりと「同じ主題の変奏」という作業に自覚的にかかわり続けてきたはずである。また近年のオタク系サブカルチャーのいわば「通俗的メタフィクション」もある意味で演劇的だ。そこではキャラクター達は物語を文字通り「演じている」。だから悲惨な死を遂げた人気キャラも、あとがきまんがなどでにこにこと登場して漫才を続けるのだ。


*要するに模倣作やファンフィクションはオリジナルに対する意識裡無意識裡の批評作業なのであり、そこから逆算してオリジナルの含意やポテンシャルを明らかにする手がかりにもなりうるということなのだが、ファンフィクション、あるいはパスティーシュという現象は結構歴史的に由緒正しくも根が深いものである。どのような作品が、どのようなパスティーシュを生み出すのか、についての研究をしてみると面白いかもしれない。


笠井潔も指摘する通り、ポップカルチャーの先駆としての現代的探偵小説は「キャラクター小説」の源流でもある。そしてそれはまたパスティーシュ、ファンフィクションの源流だ。ここでわれわれは何よりもまずシャーロキアンたちの営々たるパスティーシュの蓄積に注目する必要がある(がぼくはこの領域についてはほとんど何も知らない)。ホームズの性生活もの(そこには言うまでもなく「やおい」に先駆けた「ホームズ×ワトソン」ものが含まれる)から「ホームズ対(ウェルズの)火星人」などのクロスオーバー等々、そこには現代ファンフィクションの原型が相当程度でそろっているはずであるし、他方で何がしかの差異もあると思われる。それは何か?(関連して『スタートレック』も。よく知られているとおり、そこから米国における「やおい」の源流ともいうべき「カーク×スポック」が生まれてきた。)


*ファンフィクション研究を本格的に行おうというのならば、われわれは日本のまんが・アニメ界隈だけを見ているわけにはいかない。シャーロキアン研究は当然のことながら、アメリカ合衆国のSF・ファンタジーのファンダムの本格的な研究が必要となる。『スタートレック』や『スターウォーズ』『指輪物語』は言うを待たない。日本に紹介されている範囲でもアン・マキャフリイの『パーンの竜騎士』、マリオン・ジマー・ブラッドリーの『ダーコーヴァ』、ロジャー・ゼラズニーの『アンバー』などがすぐに思い浮かぶ。この辺はどちらかというとファンタジーよりだが、よりハードなSFよりのものでも、ラリー・ニーヴンの『ノウンスペース』に取材した『人間―クジン戦争』なるパスティーシュがシリーズ化されている。考えるだけでも嫌になる不毛な作業が必要になりそうだが、「研究」とはそういうものだろう。面白いもの、質の高いものだけをつまみ食いしても許される「批評」との違いだ。そしてそういう「研究」の足場なしにはまともな「批評」長期的にはできないわけで……やれやれ。


パスティーシュの一種として、ラヴクラフトの作品を源流とする「クトゥルー神話」があるが、こうした「シェアード・ワールド」ものとホームズ・パスティーシュが代表する「シェアード・キャラクター」ものの対比が必要であろう。

追記

シャーロック・ホームズ・イレギュラーズ ~未公表事件カタログ~

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