『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想(ネタバレ)

 『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公碇シンジは内向的で自罰的なヘタレ、ということになっているが、それは本当のことなのか、という疑問はかねてから提起されていた。実際には内向的で自罰的なヘタレは彼の父碇ゲンドウの方であり、権力によってそうした弱さを鎧った父によって一方的に翻弄され虐待される子どもがシンジなのだ、と。実際、料理を含め家事全般をそつなくこなすシンジは、養育者によってかなりよくしつけられており、むしろできすぎた子どもでさえある。彼は周囲から、とりわけ父(の意を汲む組織から)「内向的で自罰的なヘタレ」と決めつけられた上であしらわれ、そこからの脱却という形での成長を促される。それを内面化して引き受けるための自己呪縛が例の「逃げちゃダメだ」なのだ。
 ゲンドウがやろうとしていたことが失われた伴侶ユイを取り戻すことでしかなく、そのために全人類を巻き込む陰謀を巡らしていたこと、そのために息子シンジを含めた部下たちを使い捨てにしてかえりみなかったことはテレビ版の展開と、その完結編としての旧劇場版において既に明瞭に示されている。ゲンドウの計画は息子シンジによる拒絶によって挫折するが、そこに対話はない。ゲンドウはシンジ?によって暴力的に殺され、残った計画の否定は遺された計画の道具たるレイ、カヲルによる導きによってなされる。
 二十余年を経ての完結編となった『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではようやくこの父と息子の対話がなされ、単なる反発や拒絶ではなく、自覚的に対話を選んだ息子の前に、拍子抜けなほど父が素直に内面を吐露して「成仏」する。これが可能となったのは前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』において打ちのめされたシンジが「逃げること」を許され、その中で回復できたからである。最初のテレビ版を象徴するセリフであった「逃げちゃダメだ」は一切出てこない。大人となった旧友ケンスケが最も明確だが、実はミサトも明らかに、シンジの逃亡を容認、いや奨励さえしているのだ。
 このように見たとき、最初のテレビ版――旧劇場版から、新劇場版によるリブート、そして『シン』による完結という展開は、当初から予定されていた物語の基本線には全く揺らぎがないこと、にもかかわらずそれが貫徹されるまでに新規まき直しと膨大な時間が必要とされたこと、にまずは驚かねばならない。実際、終幕においてシンジが自己を犠牲にして大事な人々を救おうとしたところを母ユイに取って代わられる、という展開自体、すでに旧劇場版公開前に完結を見ていたある補完小説において完全に先取りされている。これは別に『シン』が二次創作のパクリだ、と言って責めたいわけではない。ハッピーエンドを追求する以上、このような展開は半ば必然だ、ということである。となると、この「誰が見てもそうなるしかない必然的な、わかりきった結末」を実際に提示するために、なぜこれほどの時間がかかったのか、について考えなければならない。あるいはむしろ逆にこう言うべきなのか。「誰が見てもそうなるしかない必然的な、わかりきった結末」を今更改めて提示しても、それだけでは全く説得力がない。それに説得力を与えるには何が必要だったのか? と。この観点からも「逃げること」の肯定の意義について、改めて考えねばならないだろう。
 今となってはやや信じがたいことかもしれないが、テレビ版最終二話の完結の直後、大部分の視聴者は激怒していたが、ごく少数ながら「ゲンドウのやっていることはすべて正しい」「人類補完計画によってシンジは救済された」と強く主張するエキセントリックなファンも確実に存在した。そのような解釈は、少なくとも制作者の意図には沿わないこと、ゲンドウは卑小で邪悪な、憐れむべき人間に過ぎないものとして描かれていたことは、繰り返すが、すでに旧劇場版で全く明らかだったにもかかわらず、である。そして実際、旧劇場版という作品自体は、ストーリー、プロット自体はともかく、雰囲気としてはそのような解釈を容認するところがあった。実際、制作者の意図は万能ではなく、結果的に作品がそれを裏切りそれを超えてしまうことはままある。
 たしかに作品に即して見る限り、言葉の上ではシンジは、ゲンドウの補完計画を拒絶して、他者のいる世界へと回帰したことになっているが、その再生した世界の具体的ありようはまともに描かれない。そこに描かれるのは彼を「気持ち悪い」と拒絶する(ように見える)朋輩のアスカだけである。そもそも補完計画からの脱出自体、ゲンドウの道具として利用されていた使徒であるレイやカヲルの厚意によるものであり、シンジ自身の主体性は弱い。ゲンドウとの直接対決もなく、ただエヴァンゲリオンと一体化したシンジが一方的に食い殺すのみである。
 それに対して『シン』では補完計画の克服は、シンジ自身の決断と主体性によって行われる。レイもカヲルも無力化されており、逆にシンジによって救われる。ゲンドウとの対決も、暴力よりも対話を通じて行われ、ゲンドウは内省の末に自らの非を悟り、退く。このような展開は、おそらく最初のテレビ版から予定されていたはずだ。にもかかわらずなぜそれは旧劇場版ではできなかったのか? そしてこの当初予定されていたであろう結末にたどり着くまでに、これほどまでの時間がかかってしまったのは、なぜなのか? 
 それはおそらくは、一見失敗、挫折と見える旧劇場版にも、それなりの必然性があったこと、本来予定されたハッピーエンドを完成するためには、旧劇場版で描かれたような破壊と荒廃をいったんは潜り抜ける必要があった、ということなのだろう。旧劇場版の真の失敗は、それが完結編として作られてしまったことにある。本来ならば、そこからの回復の物語が、更に具体的に紡がれる必要があったのだ。
 そしてリブートとしての新劇場版も、最初の二作、『序』『破』までの展開のままでは、ちょうど旧劇場版を裏返した形での失敗に陥っただろう。別稿で私は「二次創作の域を出ていない」と書いたが、実際多くの「補完小説」は本来予定されていたはずのゲンドウとシンジの対決を、シンジの成長を踏まえて素直に描くものだった。『序』『破』のトーンのままでは、それを超えることは難しかっただろう。それは単に既存の二次創作を超えられないと言うにとどまらない。物語の内的な説得力が足りない、ということである。
 テレビ版、旧劇場版でも、また『序』『破』でもシンジは状況の主体的な把握ができておらず、ただ周囲の大人の指示に従い、意を汲む以上のことはできていない。テレビ版第19話と『破』クライマックスでの、レイを救うために一旦降りた初号機に再び搭乗するという決断も、ひどく近視眼的なものである。実際彼には物語上そのような役割は課せられておらず、そのレベルでのゲンドウとの対決の主体はあくまでもミサトである。そのあたりの齟齬を調整することなくシンジにゲンドウのプランを破壊させても、ご都合主義的で説得力がない。シンジの成長を促すか、少なくともミサトとのより深い連帯が築かれねばならない。旧劇場版では、シンジはそのどちらもないままに修羅場に放り出され、ただ一方的に痛めつけられ、レイとカヲルの厚意なしには何もなし得なかった。だからその後帰還した世界にも何らリアリティはないし、シンジはそこでただ狼狽えているのだ。そして『破』のシンジもまた、有り余るエネルギーのぶつけどころを知らないまま、「落ち着け」と言わんばかりにカヲルの槍に貫かれてしまうのである。
 では『Q』をどう位置づければよいのか? 『破』末尾の予告編から推察される初期のプランは、おそらくはテレビ版で本来予定されていた終幕のやり直しであり、覚醒した初号機をめぐるゼーレ、ゲンドウ、ミサトらの暗闘、ミサトを主体とするゲンドウの陰謀との対決が普通に描かれただろう。なぜその予定が変更されたのか? そこは想像するしかないが、直接的には、制作者の情動のレベルでは東日本大震災のショックがそれを許さなかったのであろう。少なくともそのような展開ではまだご都合主義に思われて、現実の災厄と対決する強度を到底持ちえない、と。それゆえに実際の『Q』は災厄の回避ないしその克服ではなく、災厄に翻弄される様を主題とするしかなかったのである。そしてそこでのシンジはなお、状況を理解することもなくただ周囲の、今回は直接に父の意を汲むに汲々とするだけである。
 ただ当然にそこにもテレビ版、旧劇場版との歴然たる違いはある。第三新東京市周辺でのみ物語が展開され、あたかもその外側が存在しないかのようなテレビ版、全地球を巻き込む破局も、ただシンジの感覚を通じてのみ描かれ、体感ゲームのシミュレーションのようにしか見えなかった旧劇場版とは異なり、新劇場版はていねいにその外側の世界の実在を描こうとしていた。最も象徴的なのは、旧稿でも触れたが、テレビ版では会話の中でしか登場せず、その実在さえも定かではなかったトウジの妹が、サクラという名を与えられ、三人称的な記述で顔も姿もきちんと描かれ、『Q』ではキーパーソンのひとりとして活躍する、ということである。テレビゲームのように現実感を欠く世界で飛翔する巨大戦艦ヴンダーの描き方も、機構的なディテールへのこだわりが、その背後に確固として生存している人類文明の存在を示唆するように配慮されている。
 そして今回の『シン』においては、シンジが逃げ出した先として、その外部がはっきりと物語の前景に現れて、そこがシンジの回復と成長の舞台となったのである。ケンスケ、トウジ、ヒカリといった成長した旧友たちの生存、ミサトと加持の息子リョウジもまた、サクラと同様に希望としての外的現実を構成する。そしてそうした外部と、物語の中軸をなすヴンダーの人工空間とは決して切れてはおらず地続きであることも、トウジからサクラへの手紙、母と名乗れないミサトへのリョウジからの届け物、そしてケンスケの自宅でくつろぐアスカという形で明確に描かれる。この外部との往還によって初めて、シンジの成長を破綻なく描き出すことが可能となったのである(思えば開幕劈頭のパリでの激闘もそうだ)。
 そして実はこうした外部空間との往還、そして『破』から『Q』の間に設定された14年という時間は、シンジだけではなくミサトら上の世代にとっても必要とされていたこともわかる。名乗り出ないどころか一生会わないと決めた息子を思い続けるミサトにも、また私怨からではなく使命感で躊躇なくゲンドウを撃つことができたリツコにも、この14年という時間はゲンドウと対峙するために必要だったのである。シンジたちチルドレンでもなく、いわんやゲンドウでもなく、彼女たち旧ネルフ=現ヴィレの現場クルーたちこそ、世代的に見れば制作者たちの分身としてふさわしい。

 

*「旧稿」は『ナウシカ解読[増補版]』所収の二つの文章を指す。

 

ナウシカ解読 増補版

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