左翼・右翼・保守主義(承前)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060712/p1

                                                                                          • -

 果たして「深い亀裂」とは何であるのか? 本当はありもしない「亀裂」「危機」について左翼は妄想を抱いているだけ、という可能性はあるのか? 
 左翼人士もまた公共社会の一員であるのだから、なによりもまず危機意識を抱く左翼の存在そのものが既にして「亀裂」「危機」の、単なる表現とか徴候の域を超えた実体的な一部をなしており、それ自体で「危機」「亀裂」の存在を証拠立てている、とは言えそうである。しかしそうだとしても問題は残る。仮にこの「亀裂」「危機」を感受する一部の「左翼」の存在が問題の「危機」「亀裂」の単なる一部ではなく、全部であるとしたらどうだろうか。そうだとすれば、危機意識を抱く左翼を何らかの仕方で社会から切り離せば、「危機」「亀裂」は解消する、ということにならないだろうか? ――これはまさしく田島の言う「右翼」の考え方に他ならないが、問題は「右翼」が正しいことも理論的にはありうる、ということである。
 田島のレトリックに従うなら、「右翼」は事態の真相、そして自分たち自身の正体についてもフロイト的に抑圧し、ヒステリックに否認しているに過ぎない。もちろんそのような可能性も否定できないだろう。しかしながら、そのような自己欺瞞ではなく真性の単なる無知である可能性もある。そして更には、上述のように、「左翼」こそが「亀裂」「危機」についての妄想にとりつかれている可能性さえある。
 ここで問題は現に「危機」「亀裂」が存在しているかどうか、ではなく、その可能性についての感受性――それこそが語の普通の意味での「危機意識」である――である、としてみよう。つまりここで「左翼」とはありもしない「危機」の妄想にとりつかれているのではなく、「危機」の可能性に気づいている立場である。となれば「左翼」の正しさはほぼ確実に保証される。「右翼」はこの場合、単に絶望的に無知であるか、あるいはヒステリックな否認に固執しているか、のどちらかである。しかしこの場合にも実は、正しさは左翼の独占物とはなりえない。すなわち、「保守主義」がその同レベルでのライバルとしての権利を主張する。おそらくは保守主義との緊張感ある対質によって初めて、左翼は右翼への転落を免れる、すなわち、自らの問題提起が「可能性」のレベルにあることを忘却せずにいられるのである。


 このあたりで「右翼」とはどのような立場であるのか、についていま少し明確にしておかねばならない。
 ここまで考察してきた意味での意味での「左翼」のポジションについては、無神論と有神論との対立に類比的に考えることができそうに見える。この対立において有神論は、無神論に対してメタレベルに立っている。以下、自然状態論風の仮想的歴史物語を語ってみよう。
 有神論の出現以前の時代において人々は、「神」について見たことも聞いたこともなく、そんなものの存在の可能性自体について考えたこともなかった。ところがある日「神」なるものが存在する、と語る人々が出現し、「神」について説き始める。この有神論者たちに説得され、自らも「神」の存在を信じるようになった人々もいたが、一方いままでどおりの常識に甘んじる人々もいた。しかし有神論者と彼らの説く「神」の観念の出現以降、従来の常識の意味も変わってしまったのである。従来の常識はいまや「無神論」として新たに意味付けしなおされ、常識人たちには「無神論者」という新たな名が与えられる。
 ここで有神論者たちと無神論者たちの対立の土俵を設定しているのは、あくまでも有神論者たちの方である。何となれば、かつての常識人たちが「神」の存在を信じていなくとも、すでに彼らは「神」の観念自体は受け入れざるを得なくなっているのだから。田島の論じる左翼と右翼の関係は、まずはこう解釈できそうに思われる。
 しかしながら本当は、有神論者と無神論者との関係はこのように単純なものではない。上記のような自然状態のプロト無神論者の存在を、我々は歴史的事実としては確認していない。我々の知る限りでは、常識は有神論者たちのものであり、無神論者たちはその後からやってきて常識を揺さぶる。無神論者たちはつねにすでに、「神」の観念は承知の上で、その実在だけを否定する者たちである。
 更に言えば、無神論の出現の準備をなしたものは唯一神教であり、そもそも原始キリスト教徒たちはしばしば「無神論者」と呼ばれた人々なのである。(例えば田川建三キリスト教思想への招待』勁草書房。)通常「一神教」と呼ばれるものは正確には「唯一神教」と呼ばれるべきであり(土井健司『キリスト教を問いなおす』ちくま新書、他)、そこでは「神」は世界の唯一無二の創造者にして支配者であり、世界の中に存在してはいない。つまり世界の中の普通の存在者としては、「神」なるものは存在を認められていないのである。だから当時の多神教徒、つまり普通の宗教の信者たちにとっては、唯一神教徒は無神論者と理解されたのである。
 自らの目に入る限りでの、目の前の現実をすべてと思い込みその内に自足する者、その自足を破り他の可能性を提示する者(左翼)を憎悪し拒絶する者を「右翼」と呼ぶのだとしてみよう。そのような右翼を、前者の素朴無神論者をモデルとして考えるのか、あるいは後者の素朴有神論者のようなものとして考えるのか、この違いは重要である。
(あるいは少しずれてしまうのかもしれないが、右翼を「素朴実在論者」とみなし、左翼(と保守主義)を「反実在論者」とするのか、あるいは右翼を「素朴観念論者」とみなし、左翼(と保守主義)を「反実在論者」と「穏健な実在論者」の連合のようなものと考えるのか、という選択も考えられる。)
 歴史的な現実を鑑みる限り、我々は素朴無神論者なるものにほとんど出会ったことがないので、後者のモデルの方がリアリティを帯びるようにも見える。しかしながらここで考えてみたいのは、田島も指摘するとおり、往々にして右翼は自らを「右翼」とはみなさない、という問題である。もちろん田島の記述にはミスリーディングなところもある。自ら「右翼」をもって任じる者は現実に存在する。問題は、右翼もまた保守主義者同様に、左翼によって呼び出される、左翼に反対側から呼応し、左翼の敵として自己を立ち上がらせることによって初めて、形成されるのではないか、ということである。呼びかける側、リーダーシップを取る側は左翼である。となれば左翼を無神論者としてイメージすることには不自然さが伴う。左翼は基本的には、凶兆や福音を告げる預言者として現れる、とイメージした方がよい。となれば無神論者よりもその前提たる唯一神教徒こそが左翼のモデルにふさわしい、ということになる。先述のとおり唯一神教徒はときに無神論者とみなされたわけだし、我々の知る近代の無神論者とは結局のところ近代的啓蒙の徒であり、理性あるいは現実という唯一神についての福音を伝えにきた預言者、使徒たちであった。
 大雑把に言えば、使徒たる左翼の福音に触れた者は、自らもまた左翼として同道者となるか、懐疑的な保守主義者となるか、あるいは反動形成して右翼となるか、のいずれかであろう。その結果は左翼の福音戦略の巧拙にはもちろん、福音に触れる側の態度によっても、またその他人々の努力ではどうにもならない環境要因にも規定されるはずである。ただ結果にのみ着目するならば、聴衆をして右翼に向かわせるような説教は失敗であることは言うまでもない。アントニオ・グラムシの用語を用いれば、「機動戦」に移行した時点ですでにもう失敗なのだ。ではすべての聴衆を折伏する説教が成功なのであろうか? おそらくそうではない。そうなってしまえば、「危機」「亀裂」は克服されると言うよりは単に見失われ、忘却され、その忘却のゆえに左翼もまた右翼化する。逆説的にも成功した福音とは、若干の――場合によってはかなり多くの懐疑的な不信心者、保守主義者を残すようなものであると思われる。グラムシのひそみに倣えば、「陣地戦」のたえざる継続である。


 だが以上の考察は、ある可能性を考慮の外においている。すなわち、エクソダスという選択肢の可能性を。(続く)