左翼・右翼・保守主義(承前)

 もう皆さんお忘れだとは思いますが。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060712/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060723/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060804/p1

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 あらためて整理するならば、左翼は共同体のうちに「亀裂」「危機」を見出し、その克服を共同的秩序そのものの解体再編=革命によってなしとげようとする。それに対して保守主義者は、「亀裂」「危機」の存在そのものは認めながら、全面的な革命によってではなく、あくまで部分的修正によって対処しようとする。これに対して右翼とは、「亀裂」「危機」自体の存在を否認する立場である。
 ただしここで考えなければならないことは、「亀裂」「危機」に対する素朴実在論的な立場は問題をはらんでいる、ということだ。以下、「危機」の類型論とでも言うべき整理を行う。
 まず第一に、「危機」自体が左翼の妄想であるような場合がありうる。この場合は右翼こそが状況を正しく認識していることになる。このケースを仮に「妄想」と呼ぶ。
 第二に、「危機」は実在するが、それはもっぱら左翼の危機感によって実践的に構築されているものであり、左翼の消滅解体とともに「危機」もまた消滅する、という可能性を数えておく必要もある。これを仮に「マッチポンプ」と呼ぶ。
 第三に、これまでの考察において念頭に置かれてきた典型的ケースとは、実在する「危機」に対する感応度に差があり、敏感な左翼がビビッドに反応し、鈍感、あるいは退嬰的な右翼がヒステリックにそれを否認する、という状況である。これを仮に「革命的状況」と呼ぶ。
 第四に、「危機」の実在とその切迫性があまりにも明らかで、否認しようがない場合。先の三つのケースにおいて、状況のイニシアティブをとるのは敏感な左翼であるが、この場合は右翼こそがイニシアティブをとるだろう。これを仮に「カタストロフ」と呼ぶ。
 さて、以上の類型に対して更にクロスするように、「危機」の実在を前提した上で、別の次元での類型を立てねばならない。
 一方の極に「危機」がもっぱら共同体にとって外在的、超越的な存在である場合を置くことができる。典型的には、大規模な天災である。そしてもう一方の極に、「危機」がもっぱら共同体の内的な、社会的、人間関係的要因によるものである場合が考えられる。その中間にはたとえば、普通の天災を考えることができる。「危機」の存在自体は多くの人に認知されながら、その解釈が違う。少数ながら否認する者もいるし、存在自体は認めてもその深刻度を軽んじる者もいる。「危機」への対処法においても、ずれが生じる。
 このスペクトルに添う形で大雑把に「超越的危機(大規模突発天災、突発的侵略戦争等)」「複合的危機(普通の天災、公害等)」「純社会的危機」という分類をしてみる。そうしてみると「純社会的危機」は「マッチポンプ」「革命的状況」と重なることが多いであろう。「カタストロフ」は「超越的危機」と重なる場合が多い。そして「複合的危機」は「革命的状況」と重なることが多いが、「カタストロフ」である場合も考慮せねばならない。

 さて、以上を踏まえて少しばかり考えてみよう。
 第一、第二のケースにおいては左翼の側に正当性を発見することは難しい。とりわけ第一のケースにおいては、責められるべきは基本的には左翼である。ただ第二のケースにおいては、もし仮に環境が許すならば、エクソダスという選択を左翼に許容する方がよいであろう。第一のケースにおいては、エクソダスは左翼自身にとって破滅的、とは言わないまでも、必要もない苦労をあえて背負い込ませることになるので、望ましくはない。
 そしていずれの場合においても、右翼にとっては厄介者が消滅するので、エクソダス/追放は望ましい結果を生むことになるだろう。保守主義者にとっては、刺激的なことを言う論敵がいなくなってさびしい、というくらいのところであろうか。
 これに対して、第三のケースにおいて左翼のエクソダス/追放は、共同体の危機への対処の責任をもっぱら保守主義者たちのみに負わせることになってしまう。右翼はもとより危機をヒステリックに否認するのみであるから、役には立たない。左翼たちもまた、良心的であればあるほど「愛する祖国を見捨てた」という自責の念にさいなまれ、たとえたどり着いた先が楽園であっても、必ずしも幸福ではあるまい。
 そして第四のケースにおいてこそ、保守主義者の負担が最も大きくなるであろう。このケースでは保守主義者こそが、危機が本来共同体にとって外在的であり、同胞たちを等しく襲うものであることを真っ向から受け止め、それに立ち向かうのに対して、右翼も左翼もその本来外在的であるはずの危機を利用(誤用)して共同体を引き裂くことに忙しいからだ。

――とここまで考察を進めたとき、保守主義者の新たな相貌が浮かび上がる。もし仮に「左翼よりも敏感で賢明な保守主義者」というものが存在しうるとしたら、どうだろうか? 先にぼくは「祖国と伝統の危機にアクチュアルに反応して、それを言語化するに際してリーダーシップを発揮するのは「炭鉱のカナリア」としての「左翼」知識人であろう。」と書いたが、そうした左翼に先んじて危機に向かい合うことのできる保守主義者というのはありえないのだろうか? 
 ありえるかありえないかはともかく、そのような保守主義者が存在したとして、彼らは危機に際して何をするだろうか? 
 なしうるかどうかはともかく、ひとつありうべき選択は、危機を未然に――左翼がそれに目覚めて騒ぎ出す以前に、それこそボヤの段階で回避すること、であろう。しかしそれが(ほとんどありえないことではあろうが)成功し続けたなら、先に「左翼は圧倒的に勝利することによって右翼化する」と述べたのと同様のロジックにより、保守主義者は左翼という論敵を失い、自らの位置を(そして保守すべき伝統を)見失うだろう。かくしてここでも保守主義と左翼の相互補完関係が成立してしまう。(続く?)