批判理論の再構築

 「ハーバーマスは好きではない」「どっちかといえばルーマンフーコーの方が好き」と思ってきたのだが、どうも俺のやってることは多分「公共性概念の再構築」を通じて結局は「批判理論の仕切り直し」へと(うまくいくならば)つながっていくものらしい、と気がついた今日この頃。
 気になる人は「片隅の啓蒙」の最新の奴の末尾、できればここ3回分全部を見てください。
 「コミュニケーション的合理性」と「道具的合理性」の区別は、フーコー的、あるいはルーマン的な権力論と別に矛盾しないようだ。俺なりの再定義は、能動的行為者のポジションにではなく、受動的体験者のポジションに定位することによって両者の区別を行っているわけだから、宮台的権力論と適合する。
 普通の意味での「権力」(たとえば宮台権力論で定義されるような)はあくまでも関係者双方を巻き込む「コミュニケーション的合理性」のレベルで作動するものなのだな。
 フーコー的な権力論は主にそういう対称性が崩れているところまでも射程に収める。「規律訓練」の概念とかそう。ただし「主体化」の話は、「規律訓練」を通じて「コミュニケーション的合理性」の土俵に乗っけられていく機序についての話だ。で、フーコーがそこまで届かず、晩年にドゥルーズが言ってたらしい、どうもアガンベンがそれにこだわっているらしい、そして東浩紀がとみに気にしているらしいのは「コミュニケーション的合理性」のレベルを経由しない、「主体化しない権力」というわけだが――それもう普通の意味での「権力」ではないよね。フーコー権力論はそのいわば狭間に位置するわけだ。
 するとこのような前提に立つ批判理論の目標=「権力批判」はもちろん、権力の否定ではなくて権力の吟味ということになりますね。自虐的に言うと「動物として飼育するんじゃなく、せめてちゃんと人間として権力支配してくれ!」て感じ? 
 でも人は時に自発的に「動物化」しちゃうもんだし、「動物化」それ自体は決して悪いことじゃないと思うんだよね。一般論として「動物化イクナイ!」て叫ぶと、結局それは動物を、そして人間の動物性をおとしめることになっちゃうでしょ。
 ホネットとか積読なんですが、なに言ってるんだろう。土場学は?