『社会学入門・中級編』の予告を兼ねて(続)

shinichiroinaba.hatenablog.com

の更に続き。

 

 『どこどこ』の主題は、例えばグランドセオリスト見田宗介の影響など種々の要因に寄り、一時期の日本の理論社会学が常識破壊ゲームの「派手な学問」を志向し、ともすれば上滑りな文明批評、時代診断に堕していった――実態としては必ずしもそうではなくても、市民社会においてそのような評価ができあがってしまった、との判断の下、地味で地道な実証的学問としての社会学の再興を提言するものである。というより正確には、実際には日本においても社会学の実態はそのようなものであり、ジャーナリズムなどを通じた社会学のイメージが実態から乖離しているところを、もう少し実態を反映したものに修正しよう、ということである。
 ここで当然にいろいろな祖語や誤解が生じる可能性がある。すなわち第一に、著者たちの意図としては、基本的には「再興」などというおこがましいことは考えておらず、「実態」を市民社会に理解してもらうためのキャンペーンを志しているにすぎないはずだが、そこでともすれば「浮ついた社会学の現況をただす!」という積極的な「再興」提言として読まれてしまい、世間からは誤解に基づく称賛を受ける半面、社会学界からはその夜郎自大を謗られる、という危険がある。
 しかし第二に、著者たちの方に全く野心というか山っ気がないかというとそうでもないだろう、という問題がある。社会学の現状に基本的に大きな問題はなく、ただ世間の誤解を解くだけでよい、と著者たちが本当に思っているかどうかは、何しろ四人もいることだし、四人の間での温度差も小さなものではないし、必ずしも明らかではない。
 ほかの三人がどう思っているかどうかはともかく、半分以上は社会学の外部であり周辺的関係者に過ぎない稲葉としては、若干気になっている問題はある。「社会学の現状に問題はなく、ただそのパブリックイメージがおかしいだけだ」という場合、問題の責任は現役社会学者たちよりも先行世代の一部やジャーナリズムなどの方にあることになるが、教育や啓蒙、社会貢献を適切に行ってこなかった現役社会学者の責任も皆無ではないだろう。あるいは、責任は他にあるとしても、責任者が責任をとってくれないでのあれば、現役社会学者たちが自分でなんとかしない限り、社会学の不適切なパブリックイメージは残り続ける。それゆえ、社会学者も社会学の現状を適切に市民社会に伝え、そのパブリックイメージを変えていく必要がある、とは思う。そのような形での社会学の現状に対する積極的な批判意識が読み取れたとして、現役の社会学者の中には、おそらくは稲葉と意見を同じくするもの、共感するものもいれば、ほとんどそのような関心を持たないものも、また逆に、現役の社会学者たちが既に、稲葉の考えるのとは違うやり方で、それなりに学界外へのはたらきかけも、パブリックイメージの再構築もやっているのであり、『どこどこ』はかえってその邪魔になる、というものもいるだろう。
 いまひとつ稲葉が抱えている疑問は、社会学市民社会内でのパブリックイメージの歪みは、やはり社会学それ自体の中でのある種の歪みの反映ではないだろうか? というものである。現役の社会学者たちはそれぞれに自らの仕事に力を尽くし、その中では先端的研究のみならず、後進の教育や社会への啓蒙、政策決定や運動への参画も含まれているだろう。しかしながらそうしたそれぞれの社会学者たちの仕事は、ますます洗練され、専門分化を遂げ、その結果お互いの関係がどんどん見失われて行っているのではないか? ということである。稲葉『入門』以来問題とされているのはそこである。
 従来であればそうした様々な研究の間をつなぐ役割、つまりは社会学的公共性の確保は理論、一般理論に対して期待されていたとしたら、20世紀末以降の社会学においては、そのようなものが失われており、局所的な「中範囲の理論」があるのみである。そしておそらくそのことには理由があり、それはかつての社会学で目指された「一般理論」が「社会変動の一般理論」であり、そのようなものはしかし、少なくとも70年代から80年代の社会学者たちが望んだような形では作ることは不可能であったからだ。稲葉『入門』は「かつての社会学の統合は、一般理論が不在でもそのようなものの望ましさへの信憑は共有されていたことによるが、それが解体した今、社会学はどうなるのか見当もつかない」とのペシミズムで結ばれていた。
 それに対して『どこどこ』を踏まえた稲葉『中級編』は、おそらくは理論ではなく、実証研究の方法論の共有の方が、緩やかな形で社会学的公共性を担保しているのだが、そのことを明確に言語化する試みが不足している、との前提によって書かれている。そして社会学と隣接社会科学を比較したうえで、社会学においては当事者の社会認識のリアリティが重んじられ、究極的には研究者の社会認識と当事者のそれとは権利上対等であること、それゆえに「当事者=研究対象者から教わる」「当事者と共同研究者になる」機会が多いいわゆる質的社会調査が、実は現状における社会学的公共性の要石であること、またこのこと、つまり当事者の「野生の社会学」を重んじること、その組み入れによってアカデミックな社会学が更新される余地を残している、というより期待していることもまた、社会学における一般理論の確立を不可能としていること、を仮説として主張した。『中級編』を活字にする試みは、このような方法論の共有による社会学的公共性の存在を明示的に、とりわけ学界外の市民社会に主張することである。それへのある種過剰な自信の一部は、言うまでもなく稲葉が社会学者ではないことにもよっている。
 ただこのような稲葉の姿勢を『どこどこ』やあるいは筒井・前田『入門』が正当化しているかというと、それは別の問題である。もちろん『どこどこ』における稲葉の発言と『中級編』とは直結しており、それはまた筒井・前田『入門』をパラフレーズしたものということになっているのだが、それが適切なパラフレーズになっているといえるのか、それはパラフレーズと称してあくまでも稲葉が勝手に展開した理屈ではないのか、という疑問は当然にありうる。
 『どこどこ』前半というかむしろその柱をなすはずの岸と北田との対論と『中級編』の関係は更に不分明である。稲葉はたしかに岸・北田と、社会学におけるデイヴィドソン的構えの可能性に対して肯定的であり、またその理由は、意味の全体論的スタンスに立ちつつ、意味の担い手としての行為主体の合理性をの想定を実在論として肯定すること、であることもおおむね共有しているはずだ。しかしながらその細部においてデイヴィドソン理解が彼らと一致しているかどうかは――そもそも稲葉の、また岸や北田のデイヴィドソン理解がそれとして適切なものかどうかをさておいても――定かではない。『どこどこ』や『中級編』に対して比較的好意的な一部の哲学者の中でも、デイヴィドソンへの定位に対する疑問は少なくはない。とりわけ「実在論」は――そもそも「実在論」をとることの可否についても、また岸、北田、あるいは稲葉が言うところの「実在」が果たしてなんであるのか、そもそも意味があることをいっているのかどうか、のレベルで――深刻な疑問が呈されるところである。
 稲葉自身の立場としては、『中級編』における質的社会調査の中心性、の主張自体は取り下げる必要は感じられないが、その正当化の論法としてデイヴィドソンを持ち出すやり方が必ずしも妥当ではない、と判明する可能性は留保しておきたい、というものである。またその場合当然、稲葉の正当化の論法は、現状では岸が『どこどこ』や『マンゴーと手榴弾』で提示しているそれと一致はしないが矛盾はせず両立する、くらいの理解であるが、そうした理解が覆り、稲葉と岸が呉越同舟となる可能性もまた、絶無ではないだろう。なぜなら稲葉のデイヴィドソン理解はつたないものではあれ自分で考えてきたものであり、『どこどこ』を含めた岸や北田のデイヴィドソン理解を参照したものではまったくないからである(最初の提示は『宇宙倫理学入門』の補論にあり、更にその原型はそもそも春秋社の小冊子に寄稿した『合理性の諸問題』紹介文にさかのぼる)。デイヴィドソンを彼らもまた参照していることによるなにがしかの共感は当然にあり、逆にそれを踏まえて「岸や北田はこんな風に考えているのだろうな」との憶測の上で稲葉は岸や北田の最近の仕事を読んでいるのであり、逆ではない。それゆえ、呉越同舟の可能性は残る。
 それでも、デイヴィドソン理解(という錯覚)以外にもより積極的に稲葉が岸や北田と共有しているものがないかと言えば、むろんそんなことはないだろう。たとえば岸が繰り返し表明する韜晦、「あほな俺がカシコに教えを問う(大意)」の趣旨は、自分のやっている作業の意義とその根拠に対する不安、その意義は直観できるもののうまく言語化できず、また社会学全体の中での位置もわからない、ということであり、つまりは社会学的公共性への希求であると言えよう。「ひと様のやっている仕事の意味が分からない」のではなく、「俺のやっている仕事の意味が分からない」という率直な吐露を、いかにも誠実なものととるかかわいらしいと思うかあるいはふざけんなとブチ切れるか、は人それぞれであろう。稲葉自身は相応の好感を持っている。
 しかしながら残る問題というものはあって、つまりは方法論の共有だけで本当に社会学的公共性は――内部的にも外部的にも確保されうるのか、という問題への不安はある。「岸や北田はそういうけれども、やっぱり「大きな話」って(公共性の確保のために)必要じゃん?」と言いたい気持ちは実は私のうちにもある。社会調査の方法論の話を、無理やりに人工知能と社会科学の未来の話に結びつけたりしたのもそのためだ。
 もちろん、それこそ『入門』から『中級編』にかけて散々論じてきたように「一般理論」の解体にはそれなりの意味がある。そしてそのことへの自覚が足りない人だってまだたくさんいるのだから、きちんと言っておかねばならないだろう。社会学近現代史学におけるフーコー受容は多くの場合結局のところアルチュセール派風・グラムシ風のアレンジにとどまっており、あるマクロ的な体制を支えるミクロ的な主体の再生産機構の分析を「フーコー的ミクロ権力」と称していることがほとんどである。それではそのようなマクロレベルを先取り的に想定することを戒めたフーコーの本意からは外れてしまう。それに対して「社会問題の構築主義」研究などにおける、あくまでも当事者や関係者の現場における「クレーム申し立て」に定位するスタンスは、ともすれば反実在論に見えるかもしれないが、このような先取りを徹底的に拒否して具体的に考えるための戦略でもある。
 しかしながらこのような「恒常的に維持されるマクロレベル」――結局それはパーソンズ的な「社会システム」と、あるいはマルクス主義的な資本主義的社会構成体と、あるいは近現代史における「国民国家」とほとんど変わらない――を先取りして、それぞれの研究対象であるローカルで具体的な対象をそれとの関係で位置づけることは、現実離れしてはいるとしても、自分たちの研究の意義を他の研究との関係で確認する(ことができる気になれる)仕組みとしてやはり便利なもの(に見える)である。実を言えば「フーコー左派」を標榜して新自由主義批判をやっている批判的社会科学者の大半はこのレベルだ。地道な構築主義者はそんなレベルはクリアしているが、大きな絵を描かない分彼らの仕事の意味は外野にわかりにくかろう。(正直、私だってわからない。簡単にはわからないことに意味があるのだろうけれど。)
 岸も北田も「そんなことではだめだ」ということはわかっている。北田が分析的伝統における規範的政治理論にコミットする理由もおそらくはそれだ。ひょっとするとアドルノ以来、いわゆる批判理論は実証研究の中に規範的主張を密輸入する悪い癖がある。北田はそのような傾向と自覚的に手を切ろうとする。しかしながらおそらくは二人とも、ただ単に昔風のグランドセオリーによる偽りの学問的公共性の拒絶に甘んじたくはないのだ。その代わりに何かが必要だ、とは感じているのだ。
 ただし彼らに、その積極的な展望はいまだにない。稲葉にもむろんない。ただ稲葉自身は現在、二つの方向を探っている。ひとつには社会学の外側、応用倫理学の領域で機械倫理、宇宙倫理に焦点を合わせてポストヒューマニズムについて考えていくこと。いまひとつは、かつての社会学的公共性の残骸――とりわけマルクス主義と産業社会論の遺産鑑定をすることである。そこから積極的な何かが出てくることは必ずしも期待できないが、「何をしてはいけないのか」のヒントくらいは出てくるのではないかと考えている。

 

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

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