『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて

 王寺賢太『消え去る立法者』はディドロ研究者として世界の最前線を担う著者がディドロについて論じるための前振りとしてモンテスキュー、ルソーに遡ったもので、同じ主題を継承してディドロを論じる続篇が予告はされているものの、その概略は終章に提示されている。
 また同時にこの本は柄谷行人の薫陶を受けた季節外れのアルチュセール主義者の元左翼青年の初の単著であり、そう考えるとアルチュセールの処女作たるモンテスキュー論と、ルソー、マルクスについての講演を収めた日本オリジナルの一冊『政治と歴史』の反復ともいえる。すなわち王寺もまたアルチュセール同様にモンテスキューの功績を「科学の対象としての歴史」の発見者、近代自然法学における自然状態とそこでの社会契約というアイディアを「回顧的錯覚」と批判しつつ、そうした正当化の操作を受け付けずまた必要ともしない水準の(のちのデュルケーム的に言えば)社会的事実を見出したことに求める。またそうした社会契約への「回顧的錯覚」との批判をモンテスキューと共有しつつ、あくまでもこの社会的事実の水準を踏まえた統治を論じる秩序主義者モンテスキューを拒否して、つまり社会的事実の多様性と歴史的ダイナミズムをただ所与として受け入れたモンテスキューとは異なり、そうしたダイナミズムを生み出す根源、いわば真の「自然状態」に降り立ってそこから社会契約を論じようとした存在としてルソーを読み解く姿勢も、王寺はアルチュセールから継承している。
 では王寺にはオリジナリティはないのか、その独自性はここ半世紀の間に向上した歴史学的・文献学的水準を踏まえてアルチュセールによる読みをヴァージョンアップしたところにしかないのか、と言えばもちろんそんなことはない。アルチュセールは「モンテスキューは新大陸を発見しながら引き返した」とし、その新大陸を真に開拓したのは革命家マルクスである、とする。日本語版アンソロジー『政治と歴史』の構成はまさにそうなっている。歴史の新大陸を発見しつつ引き返したモンテスキュー、その岩盤を測定したルソー、実際に上陸して新たな植民地を作ったマルクス、という三題噺だ。しかし王寺の場合ここでオチをつけるのはマルクスではなくディドロなのである。
 何十年もまじめに付き合った挙句ついに「哲学者としてはつまらん」「救えるとしたらフィクション」とディドロについてこぼす王寺だが、思想家、書き手としてはともかく、王寺がその一端を示唆するディドロのおっちょこちょいな活躍ぶりは、天才であったにもかかわらず性格に難がありまくりで書物以外での影響を世にまともに与えられなかったろうルソーとはややことなる相貌を帯びる。終章で王寺が紹介するのは、南米パラグアイでのイエズス会による先住民の「文明化」プロジェクトであり、また続篇での主題化が展望されるのは、エカチェリーナのロシアへのコンサルティングである。一方で暴力によらず、あくまで自由意志と自発性を尊重しての、先住民の草の根の自立への迂遠な準備としてイエズス会布教区を褒め殺し、他方で啓蒙専制君主の剛腕に期待するディドロの姿は、当然に二十世紀の第三世界革命論者を予告するようなものではなく、むしろその夢の破綻、世界革命の展望も、従属理論的な自力更生の夢も破れた後の、一方で当事者主体、貧困者・先住民主体の「参加型開発」論者を、他方で世銀など国際援助機関で跳梁するテクノクラートを思わせるものである。ここに底意地の悪いアイロニーを読み取らねばならない。