「殺すことはない」

 大昔に河出の『文藝』のアンケートに答えたことが触れられていた

 

ので少し追記する。

 

 「殺してはいけない」というルールは見ればわかる通りネガティヴな禁止の形をとっている。強い道徳的義務、いわゆる完全義務の多くはこのように「なになにしてはいけない」という形をとり、「なになにすべきだ(しなければならない)」というポジティヴな形をとらない。ポジティヴな義務は多くの場合「なになにしたほうがよい」という推奨の形をとる。そうなっていることにはもちろん理由があるのだが、それはここでは主題としない。問題としたいのはその副作用であり、私見ではフーコーの権力分析やドゥルーズガタリオイディプス・コンプレックス批判などで問題とされていたのもそれだ。

 

 ごく単純に言えばこのような禁止の副作用とはネガティヴ・シンキングである。「殺してはいけない」という形で定式化されたルールが意識化されると、「殺す」という選択肢が禁止の対象としてであれ強く印象付けられてしまうということだ(禁止が実質的に煽りになりかねない)。スポーツのたとえでいえば、ピッチャーに対して、相手バッターの打ちやすい外角低めを避けて投げさせたければ、コーチは「外角低めに投げるな」というべきではない、ということだ。そうではなくむしろそれ以外の具体的な選択肢として「内角に投げろ」というべきなのだ(よりはっきり対極の「内角高め」というべきか、外角低めと内角高めは対になっていてどちらも相対的に打ちやすいので「内角低め」というべきかという技術論はしない)。

 

 ただここで外角がよりはっきり意識化されたところで、この「外角に投げろ」が逸脱を許さない完全義務として意識されても困る。だからこの指示は強い命令としてではなく、「外角に投げた方がよい」という推奨として伝えられるべきだ(その方がよい)ということになる。

 

 この考え方からすれば「殺してはいけない」というネガティヴな禁止よりも「生かす方がよい」というポジティヴな推奨がルールとしてより上位に置かれるべきだ(その方がよい)ということになる。小泉義之が『弔いの哲学』で「生きることはよい」「殺すことはない」という掟を提示しているのはそういうことだ。

 

 「殺すことはない」と「殺してはいけない」の違いを形式化してみよう。標準的な義務論理の義務演算子O(・)で「なになにすべきだ」を意味するとする。これと対になるのは許容のP(・)、「なになにしてもよい」である。O(a)=¬P(¬a)、P(a)=¬O(¬a)であることに注意しよう。つまり「aしなければならない」=「aしなくてもよいということはない」である。

 

 標準的な強い禁止、たとえば「殺してはいけない」は「殺す」をkとするとO¬(k)=¬P(k)となる。これに対して「殺すことはない」はどうなるか?

 

 「殺すことはない」を定式化するためには、実は上と同じ義務論理の枠内にとどまるわけにはいかない。義務だとしても不完全義務、あるいは限定的な義務と考えなければならない。

 「殺すことはない」の否定は「殺すべきである」「殺さない訳にはいかない」である。先の定式化を馬鹿正直に使えばO(k)=¬P¬(k)だ。しかしこれは常識的に考えて変である。誰でもが、いついかなる場合においても「殺してはいけない」という条件には意味がありそうだが、誰でもが、いついかなる場合においても「殺すべきである」というのはおかしい。この命法が意味を持つのは特定の状況においてのみであろう。とすれば、「殺すことはない」についても、特定の状況を念頭に置いて解釈すべきである。つまり、特定の状況においては(例えば戦場において、あるいは法執行の場において)、人は他者を「殺すべきである」という考え方に対しての批判である、と。これを定式化するともちろん¬O(k)=P¬(k)となる。

 だが注意すべきは、小泉は「殺すべきである」の否定である「殺すことはない」を、本来の「殺すべきではない」とは異なり、「殺してはならない」と同様に普遍的な妥当性、拘束力を持つものとして考えている、ということだ。この辺をより正確にするためには、更なる工夫がいる。

 ということで、ルールが適用される主体を明示的に示すこととしよう。となると普遍的なルールは「誰であれ何々すべきである」となる。普遍的なルールとしての「殺してはいけない」は、「xが人だとして、すべてのxは他人を殺してはいけない」ということになる。記号的に定式化すると

∀x(Ox¬(k))=∀x(¬Px (k))

となろう。では「殺すことはない」をどう定式化すればよいだろうか? より正確には条件法の論理、それもおそらくは厳密条件法より反事実条件法が必要となりそうだが、それは複雑で困難なので、まずはとりあえずの一次接近として、ごく単純に考えよう。つまり、より正確には、特定の条件のもとでは、人は他人を殺すことが許される、それどころか殺さねばならない、を条件法でストレートに定式化することは今は避けて、単純に、「ある特定の人は他人を殺さねばならない」を定式化することから始める。とすると、

∃x(Ox (k))=∃x(¬Px(¬k))

となる。これに対する否定としての小泉の「殺すことはない」はではどういうものかというと、

¬∃x(Ox (k))=¬∃x(¬Px(¬k))=∀x(¬Ox (k))=∀x(Px(¬k))

となるだろう。