いっちーの新著(8日追記)

社会学 (ヒューマニティーズ)

社会学 (ヒューマニティーズ)

 いただきもの。冒頭、師匠吉田民人の思い出から語り起こし、コントからドイツ社会医学、社会政策学を縦横に論じて社会学を徹底して歴史的文脈におきなおす、大変に勉強になる好著という感じであるが、ちょっと見たところで非常に引っかかったところもある。
 そもそも三浦銕太郎・石橋湛山を「スミスやスペンサー的な経済自由主義」と形容したり、小日本主義を「脱亜論の変奏にすぎない」などというのはミスリーディングを通り越して噴飯ものである。「一国内における社会的なものの追求が、対外的にはコロニアリズムの推進を導く場合がある」と非常にいいところに気がついているというのに、台無し。なおこの点につきここをも参照のこと。

追記(6月8日)

 梶ピエール先生からのブコメがついたので、念のためにきちんと引用する。

 後に拓務大臣となる永井柳太郎は、早稲田大学教授時代の1912年に『社会問題と植民問題』という本を著している。この本で永井は、日本国内の社会問題(貧困)の一因を国士の狭さに釣り合わない人口増大に、またその「根本的の治療」を領土の拡大にそれぞれ求め、「吾等は幸にして朝鮮を得たり」と述べた。つまり、日本国内の生活難民を朝鮮等の植民地獲得によって救おうという論理だが、これは一九四五年まで日本の政治の基本路線だったと言ってよい(拙共著『難民』2007年)。
 東洋経済新報社にいた三浦銕太郎や石橋湛山は1910年代から20年代にかけて、このような考えを「大日本主義」として批判しつつ、さらなる海外侵出への反対のみならず、すでに得た植民地の放棄さえ求める「小日本主義」を提唱した。当時は異端と言ってよい彼らの考えは、スミスやスペンサーと同じ経済的自由主義に立っていた。その石橋湛山が1956年に総理大臣に就任したことは、日本社会の大きな方向転換を物語るものだろう。それが福沢諭吉以来の脱亜論の変奏にすぎないとしても、である。日本の近代化は、大日本主義小日本主義、また脱亜論とアジア主義という二つの対立軸が絡まりあう中で展開された。
 スミスやスペンサーとの対比によって明らかになるのは、一国内における社会的なものの追求が、対外的にはコロニアリズムの推進を導く場合があるということだ。このことは十分、記憶されなければならない。
 加えて、社会的なものの追求は、ナショナリズムの強化にもつながってきた。自由放任の立場をとるスペンサーは、すでに見たように自らの主張を「個人主義」と評しつつ、コントの社会学に「ナショナリズム」という言葉を向けた。
(市野川容孝『社会学』108-109頁。)


 石橋湛山のマクロ経済論と社会政策論、たとえば四巻本の著作集の1、2を読んでいれば、こういう記述は出てこないはずである。石橋はスペンサーなどとはほとんど似通っておらず、本書中の登場人物でいえばむしろルヨ・ブレンターノの方によほど近い。(ブレンターノを詳しく取り上げているところは本書の数多い美点のひとつである。「歴史学派」のラベルの下に片付けてすむ存在ではない。)
 石橋やブレンターノはあえて言えば「社会民主主義者」である。本書では挑戦的にもローザ・ルクセンブルクを「社会民主主義者」と呼んでいるが、社会民主主義者として、つまりはリベラル・デモクラシーと福祉国家の擁護者としてみたときには、ルクセンブルグは悲惨にも挫折していることは拙著『「公共性」論』で主張した。何より彼女は有効需要論の定式化に失敗したし、帝国主義論においても破綻した。それに比べればブレンターノ、そして石橋の方がよほど成熟し完成した社会民主主義者である。