トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」用メモ
昨日24日の「現代経済思想研究会・特別セミナー 稲葉振一郎・田中秀臣・山形浩生・トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」」は盛会のうちに無事終了いたしました。お越しくださった皆様、ありがとうございました。
当日のレポはtwitterをもとに前田敦司さんがこちらにおまとめになっていらっしゃいます。また田中さんの感想兼問題提起はこちらです。
いかにペーストするのはぼくが事前に自分用に作った覚え書きです。私的メモですからいい加減です。読み上げ原稿ではありません。実際の会ではここでの論点の半分くらいしか出せていません。
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山形浩生の芸術論を少し敷衍してみよう。
山形によれば、芸術の主たる機能は、人間の認知能力の「別の使い方」を開示・例示してみせるところにある(「アート・カウンターパンチ」)。
ここでの「能力」の意味は、実証科学的な意味での具体的なメカニズムとしてのそれか、それとも超越論的なそれか? ――両方ではあろうが、山形はその違いをどの程度意識しているか?
哲学はもちろん経済学も伝統的には後者の超越論的な能力(それがいかなる具体的なメカニズムによって実現されているかは問わず、およそ「人間」いや「合理的な主体」であるなら備えていなければならないはずの)の方に関心がある。しかし我々はその具体例としてはひとつの種――普通の意味での「人間」をしか知らない。伝統的な哲学と現代的認知科学は、可能性としての「人間」の理論的な探究をも射程に捉えてはいるが、具体例は知らない。
現実存在としての人間の具体的な認知の研究と、それを踏まえた理論的な研究によって、人間の認知能力の未知の可能性について考えてみることはできる。しかしながら、その可能性を実際に実現することと、こうした研究とは別のことである。そして優れた芸術作品・活動は時に、このような研究とは直接の関係なしに、こうした可能性――人間の認知能力の新たな使い方を開示してみせる。芸術が単なる娯楽(それはそれでとても重要な機能であるが)を超えた働きを示すとすれば、こうした仕方においてである。
これをSFに援用してみよう。SFが山形のみならずたとえば中島梓(『道化師と神』)なども言うように「幼稚」であるとすれば、厳密には我々は人間以外の知性、あるいは可能性の地平としての「人間」について理論的にしか語りえないのに、しばしばあっさりと不用意に具体的に語ってしまうからである。
たとえば神を具体的存在者として――たかだか世界内の具体的存在者にすぎない、という意味において人間と存在論的に同等のものとして描いてしまうことは、カテゴリーミステイクに他ならない。ユダヤ教以降の啓典宗教が偶像崇拝を禁じたことには一定の正当性があったわけである。これに対して人間以外の知性を虚構の上で具体的に描写することは、必ずしもカテゴリーミステイクというわけではないが、相応の困難が伴う。異質な他者を異質な他者として具体的に描くことは、その可能性は了解できたからといって即座にすんなりとできるわけではない。
優れた――芸術作品と呼びうる域に達したSFとは、この不可能ではないが困難な事業に相応の成功を収めたもののことをいう。
中島梓や拙稿を含め、SFの主題を「人」ではなく「世界」を描くことに求める議論は多い。それは必ずしも誤りというわけではないが不正確である。通常のフィクションは世界の基本構造についての了解を前提としたうえで、世界の中の人と人にかかわる出来事を描く。それに対してSFの主題は、世界の基本構造を描くことそのものにある。ただしそこでの「世界」とは何か、が問題になる。SFはしばしば異星や未来社会などの異世界を描く。では、現実世界とは異なる別の世界、その基本構造を描くことそれ自体が主題であるかといえば、必ずしもそうとは限らない。そもそも何のために異世界、それも現実には存在しないはずの虚構の世界を描くのか?
田中秀臣はティエリ・グルンステン『マンガのシステム』を再構成して、マンガ(日本まんがのみならずアメリカのコミック、カートゥーン、フランスのバンド・デシネ等を含む)読解のためのモデル構築を試みている(http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091220#p1)が、私見ではそれはクワイン=デイヴィドソン流の「意味の全体論」(ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン『真理を追って』、ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』)のパラフレーズとしても解釈できる。田中はグルンステンからヒントを得て、伊藤剛のマンガ表現論(『テヅカ・イズ・デッド』)における「表現の単位の不確定性」論――現代まんがにおいては通常、コマと見開きの双方がともに表現を構成する単位として融通無礙に機能し、どちらがより基本的とは言えない――を批判している。グルンステン=田中によれば、コマにせよ見開きにせよ、あくまでもそれらは全体としての表現の「部分」として、全体に奉仕するものであり、それぞれの具体的なコマや見開きが表現上の基本単位となるか、それとも二次的な単位となる――見開きが単位の時にはコマはその単なる部分となり、コマが単位である場合には見開きは単なるコマの配列となる――かは、あくまでも表現全体の中でのコンテクストによる。
クワイン=デイヴィドソン流の全体論の発想を大雑把に言い表せば「言語表現において何事かを意味する基本単位は文であり、語句の意味はあくまでも「それが属する文の意味にどのように寄与するか」であって、語句は通常は文のように何事かを表現したりはしない」となるだろう。この観点からするならばコマも見開きも、マンガ作品という全体の部分としてはじめて意味を持つのである。もちろんこのアプローチは別の攻め口、たとえば作品の単位を「コマ」や「見開き」といったいわば「シニフィアン」のレベルではなく、「キャラクター」や「シチュエーション」といった「シニフィエ」のレベルで考えてみた場合にも有効である。更に当然のことながら、マンガ以外の表現形式、つまりは映画や小説にも転用できる。
更にもう一歩踏み出そう。
さてここでの「全体」とはもちろん、通常は「作品」であるが、つねにそうであるとは限らない。そもそも特にマンガの場合、雑誌などに連載され、複数巻にわたる長編作品においては、一回一回のエピソードや一つ一つの巻がそれなりの統一性を持った「全体」を形成しつつ、更に大きな全体としての「作品」の部分ともなる。しかしそれだけではなく、完結した作品もまた、より大きな「全体」の部分でありうる――現にある、ということも確かである。個々のマンガや文芸作品は、同じ表現形式を共有する、あるいは類似の主題を共有する他の多くの作品たちとともにある。そうした作品群という「全体」の中に属するがゆえに、個々の作品は孤立せずに理解可能となっていると同時に、そうした全体の中で、同類の他者との間の小さな差異を際立たせることによって自己のアイデンティティを主張する。これは構造的には、クワイン=デイヴィドソン的全体論において、言語表現の基本単位である一つ一つの文の意味も、厳密に言えば単独では決まらない。個々の文の意味はその文が配置された文章「全体」の中で決まり、更にその文章の意味もまた、それが置かれた文脈「全体」の中で……という具合である。更に当然のことながら、類似の語句、類似の文の集積の中で、他の語句や文との差違において、それぞれの語句や文の意味は定まってくるのであり、そのレベルでも「全体」をみることができる。
ただし、一つの作品が「全体」でありそれを構成するコマや文章やキャラクターや設定が「部分」であるという場合の「全体―部分」関係と、ジャンルや文化伝統という「全体」とそのジャンルに帰属し伝統を引き受ける個々の作品という「部分」との関係とは、構造的に大いに異なる。前者の場合には、全体の方が部分に対して(時間的とか因果的というのではなく論理的に)先行する。「全体」としての作品の意味、表現されるべき課題の方が先行し、それに貢献するために構成要素たる「部分」の意味が決定されていく。
それに対して後者の方は反対である。そもそもここでの「全体」は、実体としては――たとえ今は不在の「目指されるべきもの」としてさえ――存在してはいない。ここでの「全体」はものではなくものがそこに存在する場所、地平、空間である。ニクラス・ルーマン風に言えば「環境」である。普通の意味では存在するのは個々の作品であり、個々の表現である。(唯名論的だが)「マンガ」というもの、「伝統」なるもの、あるいは「言語」というものは実体としては存在しない。ここで「部分の意味は全体の中での配置によって決まる」というのは、先のように「全体が先行していてその意味があらかじめ確定しており、部分の意味はそれへの寄与として決まる」というのではない。「部分としての個々の表現を取り巻く環境としての全体はおおむね定まっていておおざっぱには不変であるので、それが不変であることを前提として個々の表現を決めてよい」という風に解釈されるべきである。個別の表現を行う場合に、具体的に表現者が参照したり念頭に置いたりすることができる「文脈」や他の表現はたかだか有限でしかない。しかし厳密に言えば個々の表現をとりまく文脈全体は、潜在的には無限大である。それは全体としては具体的に認識されえず、指示もされえず、ただ想定されるしかない。
さて、以上のように「全体論」の二つの方向性を想定してみたとしよう。通常の表現はどちらかというと前者のスタンスで行われる。それに対して優れて芸術的な表現は、また哲学的な表現もそうであろうが、後者のスタンスへと大きく傾く。すなわち、ある既知の全体を前提として新たにささやかな一歩を踏み出すというより、ある一歩を踏み出すことを通して、その一歩を取り巻くべき新たな未知の地平の方を切り開こうとする――そうした表現が、まれに出現する。
大げさに言うならば、圧倒的に優れた芸術作品は、世界に新たな存在を付け加えるだけではなく、世界そのものに新たな相、新たな次元を付け加える。定義の仕方自体では(それこそネルソン・グッドマン流に言えば)まさに新たな「世界」を創造するのである。つまり既存のジャンル、既存の様式、既存の伝統の中の新たなバリエーションを作るにとどまらず、そこからはみ出して溢れ出し、本来であればそちらが先行しているべき、本来その作品が位置すべき文脈、地平そのものを、その存在そのものによって結果的に切り開いてしまう。もちろんそれは「新大陸が発見された」というよりは、「そのような地平が存在すると想定せずにはいられなくなってしまった」という感じであろう。(よく指摘されることだが優れた哲学的作業にも同様の構造が見て取れる。既存の問いに新たな答えを出す作業をしていたはずが、気が付いたら全く次元の異なる新たな問いを立ててしまっていた、という具合に。)
もう少し細かく見ていけば、その中間が存在する。「圧倒的に優れた芸術作品は、世界に新たな存在を付け加えるだけではなく、世界そのものに新たな相、新たな次元を付け加える。」と述べたが、そこまでいかなくとも十分に優れた芸術作品というものについて考えておくべきである。そういう芸術は「既存のジャンル、既存の様式、既存の伝統の中の新たなバリエーションを作るにとどまらず、そこからはみ出して溢れ出し、本来であればそちらが先行しているべき、本来その作品が位置すべき文脈、地平そのものを、その存在そのものによって結果的に切り開いてしまう」わけだが、その手前に「純然たる理論的可能性としては知られているが、その具体例は発見されず実現されていない領域」とでもいうべきものを考えることができる。そうした純然たる可能性の領域において、初めて具体例を提出することができるならば、それは十分に素晴らしいことである。そもそもある程度成熟した科学研究においては、このような「理論的な予想の実現可能性」というフロンティアにおける作業がその焦点を形成すると考えられる。
SFが「幼稚」であるとするならば、「世界内の人や出来事ではなく、世界そのものを描く」という困難極まる超越論的な課題に己が直面している――というよりそう標榜してしまっていることに全く気付かないからである。もちろんその幼稚さゆえの蛮勇が、まれにまぐれ当たりを引き当てることもある。ただ、だとしても「科学的虚構」を標榜するためにそのアプローチはよくて「理論的な予想の実現可能性」に偏るために、実際の作品はしばしば一方では描写の具体性を欠き、他方では超越の可能性をも欠く、ひどく凡庸なものとなってしまうことの方が多いのである。他の芸術や娯楽ジャンルにおいてであれば目立たないはずの「超越しそこない」という欠点が、そもそもジャンル全体として「超越」を目指すと標榜してしまっているがゆえにひどく目立ってしまうのである。
一定の水準に達したSF作品も、そのほとんどはこの「超越」を首尾よくなしえたというよりは、「理論的な予想の実現可能性」というフロンティアの範囲内で首尾よく架空の具体例を提示してみました(たとえばリアリティのある地球外知性を描いてみました)、という程度のものでしかない。そして実はその水準は、ジャンル初期の巨人であるH・G・ウェルズやオラフ・ステープルドンによって達成されたところからさほど進んではいない。とりわけ20世紀末ともなれば、プロフェッショナルの自然科学者が、かつてはSFのペット・テーマであった地球外知性や宇宙文明や多元宇宙や人工知能を、シリアスな研究の対象として取り上げるようになってきており、フィクション文芸の比較優位が急速に失われつつある。
そのなかでたとえばJ・G・バラードやP・K・ディックは、人間にとっての新たな環境としてのテクノロジー、それがもたらす新たな官能の可能性を開示するという力技を見せている。この点につき自覚的であったのは山形が(『コンクリート・アイランド』解説で)子細に論じたようにバラードの方であろうが、非常に早い時期にドラッグのフラッシュバックについて(本人の言を信じるなら、世間的に話題になる前、自分でも実際に体験する前に、純粋にアイディアとして)描いてみせたディックもまた「人工自然」の予言者としての資格を持つだろう。
*参考図書
- 作者: 中島梓
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1983/12
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