「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ(25日追記)

 『社会学入門』「社会学の居場所」においては、対象を支配する一定の法則の具体的内容を前提として、そこから対象のふるまいを予測しようとする姿勢を「工学的」、それに対して対象を支配する未知の、しかし一定の法則の存在を仮定し、その法則の具体的内容を探り当てようとする姿勢を「科学的」と呼んだ。そしてそれに対して、理論社会学の一部(ポスト・パーソニアンの社会システム論)を支配した欲望を、法則そのものの多様性、更には可能であればその法則そのものの変容を支配する更なるメタ法則の理解を目指すものと解釈した。
 しかしそのような欲望には本質的に倒錯的なところがあり、どのような「メタ法則」を想定しても必ずやその背後に更なる「メタメタ法則」を想定してしまうことができるがゆえに不毛である、と『入門』「居場所」では断じた。それはちょうどカール・ポパーマルクス主義を「歴史(法則)主義」と批判したのと同様の論理である。
 そしてこの「社会変動論的欲望」の健全な救出は、狭い意味での歴史学的姿勢へとゆだねられた。この歴史学的姿勢はまた「人文的」姿勢とも呼ばれ、法則定立科学に対して、歴史的個性抽出的科学への志向とされた。
 「人文的」姿勢は社会変動論的な「全体性」への欲望をある意味で共有しているが、そのような「全体性」の学を法則定立的科学として樹立することは断念する。全体性への視点は事後的に、「ミネルヴァの梟」としてのみ到達可能である。歴史的全体性は事の本質上事後的にしか獲得できない。あるいは、全体性は具体的な対象としてではなく、対象を取り巻くコンテキスト、環境、地平として想定されるしかない。このあたりはアーサー・ダントが論じている通りである。


 しかし以上のような議論はまだ十分に掘り下げがなされたものではないため、以下簡単に補足を試みる。
 物理学を手本とするような決定論的世界観のもとでは、基本法則と初期条件についての正しい知識があれば、将来についての系統的な予測が可能となるが、人間的世界の歴史についてはこれが当てはまらない、と通常考えられているが、それはなぜだろうか? 
 いくつもの考え方をここで持ち出すことができる。
 まず第一に、人間的世界の歴史においても、決定論的な法則性は妥当している、と想定してみよう。この場合、十分な知識と推論能力があれば、人間的世界の歴史についての法則定立的科学が成り立ち、それに基づいた将来の予測も自然科学においてと同様に成り立ちうる。社会と歴史を支配する法則と、初期条件(「現状」で構わない)についての十分な知識があれば、そこから未来は演繹できる。
 しかしながら実際には、人間は全知ではない、というより全知ではありえない。基本法則についての理解が十分であったとしても、一人一人の人間の認識能力、行動範囲、寿命に限りがあるゆえに、初期条件――現状についての知識は不十分なものでしかありえない。それゆえに完全な未来予測は不可能である。それどころか、現在においても未知の過去を原因とする予測されざる出来事が出来する。
 法則についての知識が十分であれば、現状についての知識をもとに、現時点までは未知であった過去についての認識を、遡行的に獲得することはできる。この手順はいわばリバース・エンジニアリングであり、解釈学であり、歴史科学の営みである。ダントが言おうとしていたことはこれであり、全体性へのパースペクティブは「ミネルヴァの梟」としてしか獲得できない、という所以である。
 今度は、世界は決定論的には必ずしもできあがっていない、としてみよう。少なくとも生物進化の世界では、ランダムな遺伝子突然変異があり、人間もまた生物である限りにおいてその影響を受ける、と考える。更に人間の行為においても、類似のランダムネスがあると仮定してみる。
 ここで不確実性や確率のなんたるかについては深く考えず、非常に客観主義的に、そうしたランダムネスも初等的な確率論で処理できる程度のもの、と想定してみる。とすれば、生物進化や人間行動の歴史については、仮に現状についての完璧な知識があっても、厳密な将来予測は不可能で、たかだか確率的予想しかできない、ということになる。
 ただしこの場合でも、不確実な事象の時系列的連鎖が過去から未来に向けてツリー上になっているならば、現時点から遡って過去を認識することは、たとえ現時点において未知なる過去についても十分に可能であることになる。


 『入門』「居場所」の範囲での「人文知」の位置づけは大旨このようなものであり、社会変動論的な欲望を正して適切な場所に収める、ということがそこでは目指されていたが、実は以上のパースペクティブからはこぼれ落ちる問題系がある。すなわち、しばしば人文社会科学と自然科学との決定的違いとして論及される、対象とのコミュニケーションの問題である。

物語としての歴史―歴史の分析哲学

物語としての歴史―歴史の分析哲学

追記(5月25日)

 講義中紹介した橋爪・志田・恒松論文。志田がその後合理的選択理論に進んだことは示唆深い。